ネタバレを先に読むことに関する若干の考察
【10月27日 記】 以前 note に「ネタバレ映画評のほうが良いってほんと?」という記事を書きました。
最近の若い人の中には、まずネタバレ記事を読んでから映画を見に行くと言う人が結構いるのだそうだが、我々の世代としてはこれはとんでもなくびっくりする話で、先を知った上で観て何が面白いのだろう?
という記事でした。
すると、note でいつも僕の記事を読んで 100%「スキ」を押してくれる人がコメントをしてくれて、
僕は大どんでん返しの映画でない限りはほぼネタバレを見ます。それは、先に内容を知っているとより深く作品を理解出来るからです。
大抵、映画は何度も映画館に通って見ませんので、一度に得られる情報は限られてきます。たまにテレビに放映されるのを見た時に「あぁ、こんなことも映っていたんだ」とか「この時、こういう表情をしていたんだ」と気付く事が多いからです。
どんなに質の良い作品であっても、一度で理解することは、僕の理解力では困難な事が多い為に、予めストーリを知っていれば、内容を追う事以外に注意が向くからです。(以下略)
とのことでした。
僕はそれを読んで、なるほどそういう考えかと理解はしたものの、しかし、その感覚はやはり理解できませんでした。それが去年の 12月のこと。
そして、先週また note に映画やドラマについての記事をアップしました。
「映画の見方──カメラの動きを意識してみる」というタイトルで、
映画はせっかく映像芸術なんだから、スジを追って俳優の表情を観ているだけではつまらない。カメラが何をどう撮っているかを意識して観ると面白くなるよ。
みたいな内容でした。そこで例としてひとつ挙げたのは、放送が終わったばかりの TBS金ドラ『最愛』の第2話で、殺人の容疑をかけられている梨央(吉高由里子)が証拠のお守りの写真をつきつけられてドキッとするシーンで、カメラが吉高由里子の顔ではなく、ピクンっと動く指先を捉えていたことでした。
すると、また同じ人がコメントを書いてくれて、ここには原文は載せませんが、自分も『最愛』は観ているけど、2回めに観た時に初めてそのこと(「指の感情」と彼は書いています)に気づいたのだそうで、まさにそういうことを見逃さないために自分はネタバレを読んでから映画に行くのだ、みたいなことでした。
僕はまた、なるほどそういう考え方かと理解はしたものの、しかし、その感覚はやはり理解できませんでした。
僕が違和感を覚えるのは、
- 彼は恐らく「見逃してはならない情報」みたいなもの(あるいは「水準」)があって、それを逃さないために先にネタバレを読んでから観に行くと考えているのだろうけれど、僕はそんなものはないと思っていて、別に見逃したって構わないと思っている。と言うか、見逃している情報のほうが圧倒的に多くて当たり前だと思っている。
むしろ、ほとんど見逃している中で、何を見逃さなかったか、何に気づいたか、何について勝手にいろいろ考えたかこそが個性であり、自分らしさであり、それを自分で意識するのが楽しいと思っている。 - 僕はそもそも自分で気づかないと面白くない、他人に教えられたんじゃつまらない、事前に他人が書いたものを読んで備えるくらいなら、気づかないで終わってしまったほうがマシだと考えている。そうまでして「大事な情報」を手に入れようとする魂胆がよく分からない。
- 僕は読書でも映画でも、何かを鑑賞するという行為は作者と読者/観客の一騎打ちみたいなものだと考えている。読みながら、観ながらいつも自分が試されているような感じを抱いている。
作者はどこまで読者/観客に伝えることができるか? それは自分が意図したことだけではなく、意図しなかったことまで含めて、どれだけの広がりを見せることができるか? それに対して読者・観客は、作者が全く意図しなかったことを含めて、どれだけのことを読み取れるか? ──それが鑑賞という行為だと思っている。だから、助太刀無用なのである。
という3つぐらいに集約できるのかなと思います。
で、そういうわけで、やっぱり僕には、どうしてネタバレを先に読むのか、全く共感が湧かないのです。もちろんどんな見方をするのも自由であるには違いないのですが。
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