映画『そして、バトンは渡された』
【10月30日 記】 映画『そして、バトンは渡された』を観てきた。久々に監督ではなく原作で選んだ。この小説は読んでいて、とても良かった記憶があったので。
とは言え、読んだのは2年3ヶ月前だ。このくらい前になると僕の記憶にはほとんど何も残っていない。
永野芽郁は、売れ始めた頃に「この子のどこがいいんだろ?」と思ったのだが、その後の出演作を観ていると、とても巧い役者であることが分かった。安定的に巧いのだ。
この映画でも、親が何度も変わって2人の母親と3人の父親を持つ優子を、非常に好感の持てる演技で上手にこなしている。
それから、優子の2番めの母親・梨花を演じた石原さとみ。この配役を聞いたときに、「ああ、なるほどなあ」と大いに納得した。もちろん他の役者が他のパタンの梨花を巧く演じる可能性もあるが、石原さとみの梨花というのは明らかに大正解のひとつである。
最初から最後まで、石原さとみが如何にも石原さとみらしく演じた、明るくて脳天気でハチャメチャで前向きな梨花に圧倒的な好感を覚えた。非常に良い役をもらったなと思う。
優子の2番めの父親・泉ヶ原に扮した市村正親はさすがと言うしかない存在感だった。原作ではちょっと影が薄かった泉ヶ原という役柄が、市村という役者を得て見事に実体化した感があって、大いに驚いた。
そして、優子の3番めの父親となり、優子と一番長い時間を過ごすことになった森宮は、僕のイメージではもうちょっとコメディ系の、素っ頓狂な役者を想像していたのだが、田中圭のような二枚目がやったことで、優子の森宮への愛情が解りやすくなった気がする。
優子の最初の(ということは実の)父親・水戸秀平に扮した大森南朋は、映画の前半で消えて終盤で2度めに登場するのだが、その際の、何というか“枯れ方”が非常に見事で、これまた良い役者だなと思った。
ことほどさようにキャスティングが巧く行った映画だった。
映画は2つの物語が別々に語られる形で始まる。原作を読んでいない観客であれば、「この2つの話はどう繋がるのだろう?」と思いながら見始めて、中盤で種明かしがあったところで、「あ、そういうことだったのか!」と驚くのかもしれないが、これは原作を読んでいる者にとっては余計な仕込みである。
あんなトリッキーな設定を持ち込む必要があったのかな、と思わないでもなかった。それ以外の部分については、原作とどこが違っているのか、残念ながら僕の記憶では全く分からない(笑)
ただ、原作の持つ全体的な雰囲気はしっかり維持していたと思う。
梨花が初めて家にやってきた時の、幼い優子用に模様替えした部屋のうっすらカラーフィルターを通した画とか、その後の母娘2人暮らしになった時の、狭くなって少し貧乏くさくなったけど、やはり梨花と優子の家という感じの色合いとか、ストーリーにふさわしい優しい画だった。
「試写会では鑑賞者の 92.8% が泣いた」などと宣伝文句にあるが、こういうのは大嫌い。泣かせる宣伝するなよと思う。泣かなくていいんだよ。
原作の書評に僕はこう書いていた:
僕らはこの過程を微笑みながら読めば良い。そこに変に教訓を求めたりリアルさを採点したりせずに。そうすると幸せな気分で読み終えられる本だ(以下略)
この映画もそういう映画だと思う。
しかし、独りで観に来ていた隣席のおっさんがラストシーンで泣いていたのには驚いた(笑)
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