『息吹』テッド・チャン(書評)
【9月12日 記】 とんでもないものを読んでしまった。いや、貶しているのではない。驚いているのである。
僕はそもそも SF というジャンルを読みつけていない。この本を何故読もうと思ったのかももう憶えていないのだが、誰かの書評か紹介文を読んで面白そうだと思い、普段あまり手を出していないこういうのも読んでみようと思ったのだろう。
そのときに多分映画『メッセージ』の原作となった『あなたの人生の物語』の著者だという辺りの情報は得たのだと思う。しかし、いつものことだが、実際に読み始めるころにはそんなことはすっかり忘れていた。
なんであれ、この本を含めて、これまでに 27篇の中短編小説しか発表していないのに、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、星雲賞をはじめ世界の SF賞を合計20冠以上獲得している巨匠である。これがまだ2作目の本だとは言え、僕なんぞの手に負える作家ではない。
冒頭の「商人と錬金術師の門」を読み始めたら、なんとこれは『千夜一夜物語』ではないかという設定の作品。
これはタイムトラベルものだが、多くのその手の作品と違って「過去を書き換えることはできないが、過去を深く知ることはできる」という設定に則っているということを、読み終わって訳者あとがきではじめて気がつくという体たらくである(笑)
で、そもそも何編の作品が収められているのかも知らずに読んだので、この後もこのアラビアンナイトの設定が続くのかと思ったら、2作目以降にはまた作風も舞台も設定も全く違う8篇の SF が続いていた。
そのひとつひとつの SF的しつらえ、つまり時代設定や環境設定、そしてそこに登場する機械装置やアンドロイドや AI や科学理論のもろもろは、僕のようにその方面に暗い者が読むと、もう頭がクラクラしてくる。
よくもまあこんな複雑かつ難解なことを、しかも、ここまで精緻に考えて、それを整合性を保って展開し、ここまで圧倒的な物語に仕立て上げるものだとただただ感心するしかない。
テッド・チャンは名前からして中国系であることは分かるのだが、読んでみると如何にもアメリカ人的な作家であることが分かる。
そこに出てくるのは単なる科学と空想ではない。宗教、哲学、人生観、倫理観、そして世界観など、如何にもアメリカ人的な発想と思考がフルに展開され、登場人物の生活に色濃く反映されている。
この点がこれらの作品を見事に深みのあるものにしている。
いずれにしても個々の作品を解説するのはおろか、紹介することでさえ僕には荷が重いのでここらでやめておく。
SFファンは当然、とっくの昔に飛びついて読んでいるのだろう。普段そういうものにあまり馴染みのなかった人は一度読んでみると良いと思う。あなたがもしも僕と同じような人なら、ちょっと腰が抜けて立てないような感じになると思う。
ちなみに僕は「ソフトウェア・オブジェクトのライフサイクル」と「不安は自由のめまい」の2篇がとりわけ面白かった。
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