『鳩の撃退法』佐藤正午(書評)
【7月9日 記】 (上下巻通じての書評です)佐藤正午という作家は割合トリッキーなところのある作家だとは思っていたが、今作は出だしから思いっきりトリッキーで、ちょっと驚いた。
冒頭、幸地秀吉という男が出てくる。幼い娘・茜が彼のことをヒデヨシと呼んでいるという記述から始まって、風邪で体調を崩した妻に代わって彼が茜を幼稚園に送って行き、同じ園児の母親である慎改美弥子に会う。
そこで1行空けて、その後も秀吉の1日についての記述が続く。
バーを経営している秀吉は長いつきあいの友人・倉田から「おまえの店で預かってほしいものがある」と頼まれる。その後いろいろあった後、妻から妊娠したと告げられた秀吉は「おなかの子の父親は僕じゃない」と断言する。
章が変わって、時間が少し戻り同じ日の明け方の記述になる。秀吉は店を閉めた後、いつも通り夜食を取るために、その日はドーナツショップに行った。そこの喫煙席でたまたま同席した小説家との会話のシーンが描かれる。小説家はピーターパンの古本を持っている。
──と、ここまでのボリュームを読まされると、誰もがこの小説の主人公は幸地秀吉だと思い込むはずだ。ところが、第2章の終わり際に突如として、幸地秀吉と相席していた男が僕であると作者は明かす。
おまけに幸地秀吉一家は3人揃って蒸発してしまうのである。そうなると、もはや幸地秀吉が主人公であり続けるはずがない。
つまり、ずけずけとものを言うこの小説家こそが主人公であり、かつ、物語の語り手・津田伸一なのであった。
小説の主人公や語り手は、小説家が自分を投影していることが多い。従って、あんまりひどい男であることはない。もちろん、悪人が主人公の小説もたくさんあるが、そういう場合は大体主人公は三人称で客観的に語られる。
しかし、この小説では、なんともひねくれ者で、他の人が気にも留めないことにいちいち引っかかって、なんだかんだと鬱陶しいことを言う主人公が一人称で語るのである。
津田は直木賞作家である。しかし、今は何も書いておらず、何人もの女を渡り歩いてヒモみたいな生活を続けている。今はある町の風俗店経営者に拾われて、デリヘル嬢の送迎の仕事をしている。その際に運転しているのは居候させてもらっている女の車である。
その風俗店の社長が「直木賞を2回も獲った」という紹介をしても、別段否定することもない。案外真実は「直木賞候補に2回なった」ぐらいなんじゃないかと思って読み進んで行ったのだが、もう少し読むとどうやら本当に直木賞は獲ったらしいことが分かる。
ま、どっちにしても、あんまり感心しない男である。女たらしである。しかし、持てない男は理不尽に思うのだが、この女たらしが割合持てたりする。ことあるごとに「俺はこの女と寝ることになるな」などと思ってしまう。その予感が外れることもあるが、何度かは当たっている。
他人の名前の漢字を読み間違える。本人から違うと言われても決して訂正しない。これは憶えが悪いのか、それともそんなもの憶えようという気がそもそもないのか。経済的に窮してくると、誰彼構わず金をせびることを考える。
「な?」と言えば理不尽な要求でも受けてくれるのではないかと甘く考えているフシがある。都合が悪くなると「その質問は受けつけない」と言う。
その津田が事件に巻き込まれる。それをきっかけに津田は小説を書き始める。その冒頭がこの小説の冒頭であり、幸地一家の蒸発事件だ。固有名詞も何も全てありのまま書いてしまう。
もちろん、知らないこと、分からないことはたくさんある。しかし、そこは小説家だ。空想力で埋めて、まるで小説みたいな(笑)面白い物語を紡いで行く。
曰く、
思案のしどころだ。ここが事実の曲げどころだ。
などと。
僕は物語の書き手が透けて見える小説はよろしくないと常々思っている。
よく言われる「小説の中の人物が勝手に立ち上がって動き出す」という表現はあまりにきれいすぎて嘘っぽいが、読んでいて「あ、これは作者がこんな意図でこの人物にこんなことを言わせたな」と感じてしまうと興が醒めて先が読めなくなってしまう。
ところが、この小説ではあまりにはっきり書き手が見えている。何しろ主人公の作家を描いているのは直木賞作家の「僕」なのだから。
しかも、作者は作中でしょっちゅう自分の書いた文章を振り返って、あんな風に書かないほうが良かったかな、とか、作家というものはそういうことを書きたがるものだが自分はそんなことは書かない、などと興醒めなことをいろいろ言う。
一方で、こんなこともしれっと書いている:
僕の場合は(中略)なにしろこの物語の作者であり同時に実在の登場人物でもあり、一人二役のわけだから、二つの立場のあいだに葛藤がある。
なんじゃ、そりゃ!
これは構造上のトリックである。透けて見えてしまう書き手の上に、その書き手を振り返る書き手をさらに重ねることによって、一旦は失われた物語としてのダイナミズムとリアリティを取り戻してしまうのである。
さらに、津田が勝手な想像で作り上げた過去に関して、そのうちにいろんな事実が判明してくる。まるで事実が小説を追いかけているかのように。そして、事実に追いかけられて、と言うか、まさに追い落とされそうになりながら、津田は続きを書くのである。
なんとトリッキーな小説だろうか!
トリックなどと書くと、うっかり犯罪小説の謎解きのことと思われるかもしれない。あるいは「信頼できない書き手」による“叙述トリック”を思い浮かべる読者もいるかもしれない。しかし、この小説のトリックはそのいずれでもなく、言うならば小説の構造上のトリックなのである。
長い長い、とても複雑な物語の、初めの数%しか紹介しないうちに随分字数を費やしてしまったが、ま、後は読んでのお愉しみということで良いのではないかな(笑)
僕がこの作家を好きなのは、終わりを大団円にしないところである。だからといって唐突に終わりになるわけではない。
読んでいると、あ、もう最後のパートに来ているなと分かるのである。それは、文章にものすごい勢いがついてくるからであり、こういう芸当ができるからこそ、現実に彼は直木賞作家なのである。
小説の中ほどで、佐藤正午はさらっとこんなことを書いている:
ここで本当らしさが醸されるのは、わかりませんと打ち明ける私が完全無欠のひとではないからだ。つまり僕やあなたと似ているからだ。本当らしい物語においても、本当の人生においてもわからないことは多々生じ、なぜそういうことになったのか、私にはわかりません、としばしば言い訳しながらひとは生きているからだ。
そういうことを逆手に取った小説である。めちゃくちゃおもしろいよ。
ところで、読んでいる途中でこの小説が映画化され、近く公開されることを知った。なんと津田伸一を演じるのは藤原竜也である。自分の抱いていたイメージとのギャップが大きすぎてちょっと頓挫した。
いくらなんでも藤原竜也じゃ若すぎるだろう、と思って調べてみたら、彼ももう39歳であった。うむ、それならアリか。──そこから先は僕の脳内で津田伸一は藤原竜也になった。
予告編を見ると、長い小説だけにそのまま描くのは不可能だからだろうが、少し構成を変えている感じである。いずれにしてもこれも観ようと思う。愉しみである。
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