『やがて海へと届く』彩瀬まる(書評)
【6月22日 記】 初めて彩瀬まるを読んだのだが、読み始めてすぐに、あ、これは僕の好きなタイプの作家だなと思った。この人は文章が書ける。ずば抜けて書ける。いや、文章が書けない作家なんて、形容矛盾でしかないのだが(でも、そういう作家はいる)。
始まりは都内のホテルのダイニングバーに勤める28歳の真奈の話。血液検査をしたら、腕に大きな痣ができてしまった。その痣を見て真奈は、
大げさで迫力のあるあざに見とれながら、唐突に、私には体があるんだと思い出した。
などと言う。こういう独特のものの見方、感じ方が随所に出てくる。とても繊細な、と言うよりも、内省的な女性である。
その後にも、
口を動かしながら、私はこんな大げさなことを考えていたんだ、と少し驚いた。
という述懐がある。常に自分の内面を見つめて、自分を修正しようとする営み。
ここにも「大げさ」という単語が現れる。大げさに考えるのはやめなくちゃ、という真奈の心情の現れなのかもしれない。
そんな女性の日常を描いた作品かと思って読み進めて行くと、真奈の親友のすみれの話になる。そして、さらに読み進めて行くと、すみれは東日本大震災が起きたときに現地にいて、それ以来行方不明になっていることが語られる。
すみれの両親はすでにすみれを死んだものとして考え始めている。すみれの彼氏だった遠野もすみれの残した荷物を形見分けしたいと真奈に言ってくる。
真奈ひとりだけが、すみれの死を受け入れられない。死んだとは思いたくない。その一方で、すみれの不在は大きな哀しみとなって真奈に覆いかぶさってきている。
そして、最初の章が終わって新しい章番号が出てくると、一気に小説の様相が変化する。2章の出だしはこんな、ある意味大げさな表現になっている:
葡萄色をした夜の紗幕が一枚、また一枚と剥がれ落ち、東の空に輝きが差した。
ここは明らかに真奈や遠野が暮らしている世界ではない。どこかの異世界だ。あるいは悪夢か。そして、このあと、この小説は真奈の日常世界と、この異世界の描写が交互編まれて描かれる。
老婆にいきなり「バスは来ないよ」と言われる(そして、後の章でも同じようなシチュエーションが何度も出てくる)。老婆の許を離れて歩き出すのだが道に迷う。暗い森や一軒家に迷い込む。
そして、持っているトートバッグの中で魚が跳ねるぴち、ぴちという音が聞こえる(これも後に何度も出てくる)。
これはまるで上田秋成の『雨月物語』である。あるいは中国の『聊斎志異』。それともラフカディオ・ハーンの『怪談』なのかもしれない。すみれの彼氏だった遠野の名字は『遠野物語』から取ったのかも、などと考えたりもする。
この偶数章を皆さんはどんな風に読んだのだろう?
これらの異世界の章は、東北で津波にさらわれて死亡し、その後さまよい続けているすみれの魂が主人公で、すみれの死後の経験なのだとする読み方がある。
そうなんだろうか? 僕にはよくわからない。僕はむしろこれらの章の主人公を真奈と見て、真奈が主語になっている文章だと考えて読んだ。さまよっているのはむしろ生きてこの世に置き去りにされた真奈の魂なのである。
その真奈の魂は、その後の奇数章でゆっくりと自浄される。店長の死を思い、
生きているときだってあんなに苦しいのだから、もし死んだあとに苦しみが続いたって、それほど驚くようなことではないのかもしれない。
と真奈は思う。そう思ってすみれの遺品を見る。そして、自分の腕を見ると、血液検査の痣が次第に薄れつつあるのに気づく。
街でたまたま知り合った女子高生に、
忘れないっていう言葉が、すごくうさんくさく思えてきたの
と言われたりもする。
真奈は死者の思いを代弁しようとするすみれの母親に強い嫌悪感を抱きながらも、彼女自身は次第にすみれの不在を乗り越えて行く。
少し書きすぎた。もうこれ以上は書かない。魂が洗われるような小説だった。
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