『his』
【5月8日 記】 都内で一般的な映画を上映しているのはアップリンク渋谷とユーロスペースと、池袋シネマ・ロサとポレポレ東中野ぐらいになってしまったので、録り溜めていたビデオを観ることにして、今泉力哉監督の『his』を観た。
順番としては『mellow』と『街の上で』の間に制作された 2020年の作品。これで僕は『パンとバスと2度目のハツコイ』以降『あの頃。』まで7本の今泉作品を観たことになる。
知らなかったのだが、これはメ~テレで放送された深夜ドラマ『his〜恋するつもりなんてなかった〜』の13年後を描いた作品なのだそうで、全5話のうちの3話を今泉力哉が演出している。ただし、出演者は今回の映画とは異なっている。
脚本はいずれもアサダアツシである。
元々は放送作家としてたくさんのバラエティを手掛けてきた人だが、近年ではドラマの脚本も物している。僕がこれまでに観たのは映画『裁判長!ここは懲役4年でどうすか』やテレビドラマ『マジで航海してます。』など。
この脚本が良い。はなはだ下世話な発想で恐縮だが、この人はゲイなんだろうか? 自分の経験に全く基づかないでこういう話が書けたとしたら、それはそれでまたすごいと思うが…。
ゲイのカップル、井川迅(シュン、宮沢氷魚)と日比野渚(藤原季節)。映画は渚が迅に「別れようか」と切り出し、迅が呆然とするシーンで始まる。
迅はその後東京を離れ、岐阜県の白川町という「山と川以外何もない」ような田舎町で、家庭菜園の自給自足と、近所の猟師の緒方(鈴木慶一)との物々交換によって暮らしている。
そこに突然、パパになった渚が娘・空(そら、外村紗玖良)を連れてやってくる。迅にとっては「今頃になって何故こんな所にまで?」という思いだけではない。迅が渚から事情を聞いた後の最初の言葉は「バイだったの?」である。
渚はオーストラリアに渡り、そこで知り合った玲奈(松本若菜)と仲良くなり、やがて結婚し、子供ができる。渚は「これで自分も社会に認められる普通の男だ」という思いを強くするが、やはりゲイである自分を隠し、偽って暮らすことに耐えられなくなり、玲奈に切り出し、離婚するしかなくなる。
離婚については双方合意しているのだが、どちらが親権を得るかについては調停中である。通訳として忙しい玲奈に代わって渚が家事と育児の一切を引き受けてきたこともあって、空は渚によくなついている。
一方、迅のほうは、突然娘を連れて現れて、3人で一緒に暮らして行こうとする渚の身勝手に腹を立てるが、渚への思いを引きずったままの迅には彼を追い出すことはできない。
そして、何日か経った後、今度は玲奈が空を連れ戻しに来る。やがて、2人は裁判で親権を争うことになる。
僕は「こんな田舎町でゲイのカップルが暮らして行くのはとても無理なんじゃないか」と、ぞわっとした不安感に襲われながら観ていたのだが、白川町の住民たちがとても良い感じで描かれている。噂好きでおせっかいな人たちが多いが、悪い人はいないのだ。
町役場の吉村美里を演じた松本穂香が巧い。初めて登場するシーンから迅に「ほの字」であることがはっきりと分かる。
幼児に盲牌を教えるほどのとんでもない麻雀好きの房子(根岸季衣)が、カミングアウトした迅にめちゃくちゃ良い台詞を返す。
そして、迅を暖かく見守る緒方を演じた鈴木慶一は、僕も彼が出演した映画は何本か観てきたが(多分ムーンライダーズのファンでなければ映画を観ても認知していないだろう)、役者としてはこれが生涯ベストではないだろうか。
ともかくストーリーと台詞で持っている映画だ。後半の裁判シーンで弁護士を演じた戸田恵子も、いつもどおりの安定した演技で、これまた良い台詞を吐く。握手を求めるところもとても良いシーン。
そして、最後の、小学校の校庭で自転車の練習をする空と大人たちを、ものすごく引いた画で捉えたシーンも秀逸である。
いろんなことを考えさせられる映画であるとともに、とてもポジティブな映画である。読後感がとても良い。
藤原季節については、僕はついこの間、深夜ドラマ『西荻窪 三ツ星洋酒堂』で名前を憶えたばかりなのだが、調べてみたら、その前に彼が出演した映画を9本も観ていたので驚いた。宮沢氷魚、子役の外村紗玖良も良かった。
やっぱり、今泉力哉の演出力によるところもあるのではないだろうか。
Comments