『献灯使』多和田葉子(書評)
【5月24日 記】 多和田葉子は今まで3冊読んだが、その都度、書評を書くのが難しかった。だって、よく解らないのである。だけど、クリアには解らないことを潔しとしないのであれば、最初から多和田葉子なんか読んではいけない。
なんだかよく解らないのに、忘れてしまうぐらい長らく読まないでいると、また急に不思議に惹かれるのである。
これは近未来の日本の話である。でも、大厄災に見舞われた後、日本は今の日本とは全く違う国になっている。
まず、鎖国している。外来語は基本的に禁止。インターネットもなくはがきのやり取りをしている。自動車は走っていない。役所も警察も民間企業になっている。
変わっているのは人間を取り巻く環境だけではない。少子高齢化が進み、若者と老人が逆になってしまい、老人は100歳を過ぎても健康で毎朝ジョギングし、あらゆる家事を片付け、子どもたちを養い、逆に子どもたちは文字通り足腰立たなくなって車椅子で移動したりしている。
それどころか老人たちはもはや死ぬこともできなくなり、そんな大勢の老人たちが、今とは逆に子どもたちを介護している。
この小説の主人公で108歳の義郎も、ひとりでは着替えもできず、二足歩行さえできなくなった曾孫・無名の世話に暇がない。
この暗い未来をどう読むか? 明らかに原発事故以来の日本社会の行く末を念頭に置いている。みんなの考えや意識がどんどん歪んでしまった末の政治や経済や、国民の生活を描いている。
次から次へと自由な発想で描かれるいびつな設定の未来像は、それなりに面白いとは言える。だが、そればかりが続いて、全体としては却々読むのがしんどい作品になっている。
これはわざとなんだろうか?と考えてみる。
この設定でいろいろな事件や事故を起こしてストーリーを動かして行けば、もっと面白く読みやすい小説になったはずだ。だが、それはしないのだ。カタルシスはやって来ない。
そして、そういう小説に相対する読者のほうは、ついついこれを教訓的に読んでしまうので具合が悪い。文学を教訓的に読んでしまうことほど無益なことはないと僕は思う。
もしも、原発廃止を訴えたいのであれば、わざわざ小説になどせずに、論文か標語にでもすれば良い。
それをわざわざ小説にしているということは、たとえ作家の頭の中にはっきりと原発廃止を願う思いがあったとしても、作品全体としてはもっと複合的なものを表現しているはずだ。
僕らがこの本を愉しめるかどうかは、そのことをしっかり意識して読み進めることができるかどうかにかかっているように思う。
表題作の他にも4編の短編が含まれている。設定はそれぞれ全く違うが、同じようにしんどくて、同じように不思議な小説である。
このしんどさがあるからこそ、読者は読み終わった後もいつまでもそのことについて考えてしまうのである。
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