『三度目の恋』川上弘美(書評)
【3月6日 記】 川上弘美はそれほどたくさん読んではいないものの確かに好きな作家なのだが、これは本当に不思議な川上弘美を読ませてもらった。
例によって中身をあまり確かめずに読み始めた、と言うか、本を選ぶときには間違いなく何らかの紹介文を読むのだが、読み始めるときにはすっかり忘れているのだ。
主人公で小説の話者である梨子はなんと小学校に上がる前に10歳以上年長のナーちゃんにはっきりとした恋心を抱く。そして、そのことよりも驚くのは、何年か後に本当に結婚してしまうというところである。
梨子はあまり周りの子に馴染まない少女で、小学校ではいつも校務員の高丘さんのところに遊びに行っていた。高丘さんは高野山で修行したこともあるという不思議な雰囲気の大人で、梨子のことをとてもよく理解してくれて、面白い話をいっぱいしてくれる。
その一方で、梨子はその当時すでに、ナーちゃんに髪を触られると嬉しさで震えていたと言う。
そのふるえが、自分の体の奥底にあるどこかのふたの一つが開いてこぼれ出たものだと、わたしは知っていました。
などという、この辺りは、まさに川上弘美らしいなめらかな表現である。で、こういう恋の話がずっと続くのかと思ったら、いきなり江戸時代に飛ぶのである。
SF によくあるタイムスリップではない。結婚してから何十年ぶりに高丘さんと再会したおかげで、多分、高丘さんがいつか教えてくれると言っていた魔法の力のせいで、梨子は連続して江戸時代の夢を見るようになる。
その夢の中で、梨子は最初は貧しい農村の娘で、やがて吉原に売られ、禿としての修行時代を経て、おいらん・春月になる。
そこで客の高田と恋に落ち吉原から出奔しようと思うまでに至る。で、その恋に重ねられるのが、遠く平安時代に在原業平が書いた『伊勢物語』である。夢の中の春月も夢の中で『伊勢物語』を読んでいるのである。
話は逸れるが、僕は高校の古文の時間に習って以来、この『伊勢物語』がものすごく好きになった。『源氏物語』なんぞには全く何の興味もなかったしまるで評価もしていなかったけれど、『伊勢物語』は夢中で読んだ記憶がある。閑話休題。
その一方で、目が覚めているときの梨子は、自分という存在がありながら、それと完全に並立する形でナーちゃんが他の女性に恋をして他の女性とつきあってしまう性癖にずっと悩んでいる。
わたしはまるで、血の通っていない塑像のようでした。つめたくて、心がなくて、同じ形をたもちつづけるしかないもの。
この2つの時代の、共通の心をもつ2人の主人公による、2つの物語が暫く交錯するのだが、次の章では今度は平安時代に飛ぶ。
今度は梨子は貴族の娘が小さい時に相手をする役目に選ばれた少女で、やがてそのお姫様は在原業平の妻となり、梨子は傍で仕える女房となる。
ここに及んで、梨子の恋は3つの時代で語られることになる。そして、3つの時代の恋とセックスのありようが対照されることになる。これはある種のジェンダー論ではないだろうか。
平安の世での、ある種素直で直線的なエロスを体験したあとに、現代に戻ってくると、わたしは少しくらくらしてしまいます。
とか
ただ一人だけの者に向かってゆく鋭くも強いベクトルの愛情は、平安の世では、危険なものだったのです。
などと平安時代の一夫一妻制に縛られない自由な恋愛について述べたあとで、現代の恋については、
持てあましているのに好き、というふうな、ねじれた思いからくるエロスもあるのではないか
などとも語る。そしてまた平安時代に戻り、
そもそも、男女が同等だという概念は、平安時代にはありませんでした。
──女と男は、ちがう生きものみたい。
と、現代の社会的呪縛を免れた男女観を示したりもする。まさにジェンダー論でありエロス論であり、これはとてもおもしろい。
ちょっと書きすぎたかな。幾重もの時間を生き、ナーちゃん、江戸時代の高田、平安時代の業平や業平の従兄弟の真如上人、そして何度も再会する高丘への思いなども通じて、梨子の愛は新たな次元に入って行く。
その愛は、狭いものではなく、かといって広すぎるものでもなく、ぽうっとともった春の灯のようであってくれればいい。その灯がわたしを照らさなくとも、私が愛した何かを照らしてくれさえすればいい。
あとがきを読んで、この小説が「『伊勢物語』をモチーフにした小説を書いてみないか」というオファーに沿って書かれたものだと知った。
よく練られ、不思議な形に仕上がっている。愛は考えれば考えるほど深くなるのだろう。
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