髭の剃り方と徒然草と妻
【3月17日 記】 前に書いたことの繰り返しになるが、僕は何十年も髭の剃り方を誤っていたようだ。
髭の剃り方と言っても、シェービングフォームをつけて蒸しタオルで蒸して剃刀で剃るわけではなく、電気シェーバーである。
中学に入ってすぐの頃だったと思うのだが、父親の使い古しのシェーバーを譲り受けて以来、人生のほとんどの朝にシェーバーで髭を剃ってきた。
で、前にも書いた通り、会社の同僚が髭剃りの所要時間について書いているのを読んで、俄に自分の剃り方が間違っていた(だから、時間がかかりすぎる)のではないかと気になってきたのである。
ひょっとしたらシェーバーで髭を剃るときに固く握って肌にぐいぐい押し付けすぎているのかもしれない──そう思って、軽く握って肌の上を滑らすように剃ると、所要時間が若干縮んだような気がした。
深く剃るには根元までしっかり押し付けなければという僕の意識が間違っていたのかもしれない。
しかし、そう思って一度はそのように髭の剃り方を改めたのだが、気がつくといつの間にか昔の剃り方に戻っていたようだ。僕は何をするにもとかく力が入ってしまうのである。最近そのことに気づいて、また滑らせる剃り方に戻したら、やはりこのほうがよく剃れる気がする。
兼好法師は『徒然草』で、
よき友、三つあり。一つには、物くるゝ友。二つには医師。三つには、智恵ある友。
と述べている。「知恵ある」の解釈については諸説あるようだが、僕は高校で「生活の知恵」であると習った記憶がある。
僕にとって、この友にするに良き者(この 117段の書き出しが「友とするに悪き者」となっている)の典型が妻である。
妻は僕に、顔の洗い方とか、洟のかみ方とか、雑巾の絞り方とか、坂道の下り方とか、いろんな生活の知恵を授けてくれた。もちろんそれまでの僕のやり方が全て間違っていて、妻のやり方のほうが全て正しかったとまでは言わないが、妻のおかげで多くの発見があったのも確かである。
しかし、残念ながら、さすがに髭の剃り方については知恵の持ち合わせがなかったようだ。
僕は自分で気づくしかなかったのである。それを忘れてしまっていた場合でも、やはりもう一度自分で気づくしかなかったのである。
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