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Thursday, February 11, 2021

『パチンコ』ミン・ジン・リー(書評)

【2月11日 記】 (上下巻を通じての書評です)評判が良い。調べてみると全米図書賞の最終候補にもなった作品だった。でも、僕は最初却々読む気にならなかった。

物語の舞台は日本だから、自分と遠いところの話ではない。でも、同じ土地にいても、それは川を隔てた向こう側から描かれたものであって、自分には共感できないのではないかという思いもあった。

そう、ここで描かれているのは在日コリアンの家族四代の話なのだ。

ところがある日、知人が facebook に上げていた「今年読んだ本」の写真の中央にこの本があるのを見つけ、読書家の彼女に「面白かった?」と聞いてみたところ、「今年度ベスト」との返事を得て、漸く手に入れて読み始めた。

まず言えることは面白いということ。面白くて面白くてやめられないくらい面白い。これは連続ドラマにすると面白いな、と思っていたら、すでに Apple TV がドラマ化したのだとか。

とは言え、最初から面白いかと言えば、決してそうではない。冒頭からしばらくは展開が早すぎるのだ。

展開が早い物語を好む人もいるが、僕はそうではない。展開が早すぎると物語は往々にして薄っぺらくなる。ストーリーを考えるのに汲々としている感じが読者に伝わるのである。

リアリズムは得てして細部に宿っている。例えばこの本で言えば、ソンジャが初恋の人であり金満家のハンスと年月を経て再会したときに、本当にハンスなのかと、思わず彼の足許を見て、ピカピカの白い革靴を確かめる辺り。

人の記憶というものは、抽象的な概念ではなく、具体的な色や形や匂いなどの形をとっていることが多いのだ。

学のないソンジャが必死にハンスの話を理解しようとするときの記述も、如何にもソンジャらしい生活感に塗れた喩えを織り込んであって巧い:

それでも、豚の腸がはち切れそうになるまで詰め物をして腸詰を作るように、彼から聞いた話を頭に詰め込んだ。

イサクが自分の結婚について語るのを聞くとはなしに聞いてしまった女たちの描写も秀逸だ。

下働きの娘ドクヒはどぎまぎして首まで真っ赤になり、姉のボクヒから何を考えているのかといった目でじろりと見られた。台所では、ソンジャが夕食の膳から皿を下ろし、大きな真鍮のたらいの前にしゃがんで洗い物を始めようとしていた。

話が逸れてしまった。

軽い障碍のある父と働き者の母との間にソンジャが生まれ、父が死に、母が切り盛りしていた下宿屋にキリスト教の牧師であり結核を患っているイサクが辿り着く──その辺りまでの早すぎた展開が、ソンジャがハンスに恋をするぐらいから一気に落ち着いてスピードダウンし、そこからが目が話せないくらい面白くなる。

ソンジャはやがて結婚して日本に行く。義兄夫婦の家に居候して二人の子供たち、ノアとモーザスを産む。如何にもキリスト教一家らしい名前である。そこから物語はノアとモーザスに分岐して行く。

真面目で勉強のできるノア、明るくやんちゃなモーザス。ノアにもモーザスにも恋愛の相手が現れる。そんな恋は当然別々に描かれるが、いずれのストーリーも根っこは朝鮮と日本の両方に繋がっている。ソンジャの夫の死や、義兄ヨセプとその妻キョンヒの話、キョンヒに恋するチャンホやモーザスの親友・外山の話も出てくる。

言うまでもないが、日本におけるコリアンへの差別も随所で描かれる。

そんな中で、偏見なくノアに接しているように見えたノアの最初の恋人・晶子が、コリアンに対して差別意識を露わにする両親を悪しざまに言うのを聞いたノアが、一気に彼女の真髄を悟るシーンが痛烈だ:

晶子は彼を別の誰かか、現実にいもしない“外人”としてしか彼を見ていないのだ。ノア自身を見ていない。誰もが嫌うような相手とあえて交際する自分は特別な人間だと、このさきもいまのまま信じ続けるのだろう。ノアの存在は、彼女にとって自分が善い人間、教養の高い人間、リベラルな人間である証明書なのだ。(中略)

彼を──よかれ悪しかれ──コリアンとしてしか見られないのなら、それは彼を悪いコリアンとして見ているのと変わらない。彼女には、彼をひとりの人間として見ることができないのだ。

ところで、パチンコ店の経営者にコリアン系が多いのは誰でも知っていることで、タイトルからしても当然主人公がパチンコ店に勤める話だと思っていたのだが、上巻ではパチンコ店という単語が一度登場するだけだ。

下巻では漸く登場人物がパチンコ店に勤め、パチンコ店を経営し始め、そして人生がパチンコに喩えられる。

ここでは差別する日本人ばかりではなく、彼らに分け隔てなく接する日本人も描かれるが、その一方で日本人全般に対する辛辣な記述もある:

日本がだめなのは、戦争に負けたからじゃないし、何か悪いことをしたからでもない。日本がだめなのは戦争が終わったからだ。この国では平和な時代になると、誰もが月並みな人間になりたがる。人と違っていることに怯えるんだよ。

もうこれ以上は書かない。長い長い話である。読んで味わってほしい。

巻末で解説を書いている渡辺由佳里さんも指摘している通り、この小説がアメリカで受けたのは、アイルランド系やイタリア系、あるいはユダヤ系のアメリカ人たちが受けてきた差別や迫害と重ねられるからだろう。

いずれにしても、作者はコリアン系の米国人であり、これは英語で書かれた米文学である。作者は「現代の日本人には、日本の過去についての責任はない。私たちにできるのは、過去を知り、現在を誠実に生きることだけだ」と語っている。

巻末で捧げられた謝辞の対象となっている人物の多さを見ても、作者がどれほどの年月をかけて、どれほどの多くの人から取材をしたかが窺われる。まさに労作である。

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