映画『花束みたいな恋をした』
【2月23日 記】 映画『花束みたいな恋をした』を観てきた。坂元裕二・脚本。監督は TBS の土井裕泰。この人の名前は「のぶひろ」って読むらしい。今回初めて知った。
山音麦(菅田将暉)と八谷絹(有村架純)の、大学生から社会人(フリーターも含む)に至る、足掛け5年に及ぶラブ・ストーリーである。
2人の出会いと馴れ初めが描かれた部分では、「そんなに偶然の一致ってあるものか? いくらなんでもそこまで趣味嗜好と志向性が近い相手は現れんだろう」という感じがして、言わばおとぎ話のような恋愛である。
そもそもそんな組合せはありえないということもあるが、それよりも僕が思うのは、そこまで全部一致していなくても恋は成立するし、むしろ芯になる共通性が少しあって、あとは適当に違うほうが2人の関係はうまく行くということだ。
「芯になる」と書いたように、共通性は全体に広がる必要はない。細くても中心にあれば良いのである。
しかし、それにしても、ここまで感性の一致する相手と出会って、それが自分の恋愛対象となる性別の、恋愛対象となる年齢や環境の人であれば、2人は間違いなく恋には堕ちるだろうが…。
そして、その2人の共通性を語るために、これでもかこれでもかと言うぐらい作品名(小説、漫画、ゲーム、音楽、映画etc)や作家名、ブランド名などを繰り出してくる脚本の手法が本当に上手く機能していて、リアリティを感じさせてくれる。
reality は triviality の中に宿るのである。
そういう意味でこの恋の必然性は非常に上手く描かれているのだが、それよりもその後の展開で、2人が何年かの時を一緒に過ごすうちに微妙にずれが生じてきて、関係がギクシャクして来るその感じが本当に見事に描かれている。
これはやっぱり坂元裕二の観察眼なんだろうなと思う。2人の台詞の絡まり方が実に絶妙である。ひとつのエピソードが後のシーンでまた繋がって行く辺りの構成もさすがで、まあ、ラブ・ストーリーで一世を風靡してきた脚本家だけあると唸りながら観た。
ファミレスで気まずくなっている2人の近くの席に、まるで何年か前の自分たちを見ているような若いカップル(細田佳央太と清原果耶)が入ってきたシーンが秀逸だった。
菅田将暉も有村架純もナチュラルな演技のできる良い役者である。その2人をカメラはカラフルな映像で切り取って行く。店内、室内、地下構内、ベランダ、煌々と明かりの灯る夜の街など、シーンごとに照明の感じがそれぞれ印象的だった。
ただ、ファミレスのシーンでは、向かい合って座っている2人を右から撮ったカットと左から撮ったカットが割と近接して繋いであったりして、見ている僕は少し混乱したが…。
あとはあれかな、いくらなんでもトイレット・ペーパーをいっぺんに2パックは買わんだろ?ってことぐらいかな、違和感を覚えたのは(笑)
前述の細田佳央太と清原果耶もそうだが、オダギリジョーや瀧内公美、宇野祥平、小林薫、そして押井守(これは本人の役)ら名のある人物が小さな役で出ており、巧い役者が多いだけにとても効果的だったと思う。
さて、この映画の終わり方を皆さんはどう感じただろうか? あまり映画的、演劇的ではない、モヤッとした終わり方だったと思うのだが、恋ってそういうモヤッとした終わり方をするものなのだ──というのが僕の感慨である。
坂元裕二って、やっぱり大した脚本家だなあと思った。離婚経験のある元部下の女性がこの映画を観て「私、坂元裕二に惚れました」と言っていた。そういう映画である。良い映画である。
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