『微妙におかしな日本語』神永暁(書評)
【2月14日 記】 2010年に岩波書店から出た『日本語 語感の辞典』は、僕が持っている書籍や辞書の中でひときわ僕の趣味を物語るものである。
文字通り、日本語の語感を書き綴った辞書で、ことばの「意味」ではなく「語感」に分け入っているところが、他には類を見ない、言わばマニア向けの辞書なのである。
いきなり話は逸れてしまったが、『微妙におかしな日本語』はこんな辞書を持っているような人向きの本である。
何年か前の日本語ブーム以来、「日本語のこの表現は間違い。正しくはこちら」みたいな本はたくさん出ているが、この本は、「『日本語のこの表現は間違い。正しくはこちら』みたいなことはよく言われているが、それは本当にそうなのだろうか?」という本なのである。
例を出したほうが早い。例えば「火蓋を切る」と「火蓋を切って落とす」はどちらが正しいか。これは前者が正しくて後者は誤りである。
これはこの本の一番最初に出てくる対比で、しばらくこんな感じの文章が続くのだが、途中から「多くの国語辞典でこの言い方は誤りとしているが、本当にそうだろうか」みたいな例がたくさん出てくる。そして、こちらこそがこの本の真の狙いなのである。
著者はそれぞれの語義、成り立ち、出典などを縦横無尽に展開して、その表現を解説してくれる。それは僕のような日本語表現オタクには大変楽しい読書体験である。
ただ、各章の末尾に著者が必ず「これは誤った表現なので避けるべき」「こっちが本来の言い方なのでこちらを使うべきだろう」「これは誤用とは言い切れないのではないか」「これは広まってきており認める辞典もでてくるだろう」などという【結論】を書いているのだが、これは余計だろうと思う。
ことばというものは変化するものであり、必ずしもこっちが正解でこっちが間違いと言い切れないのは誰でも知っていることだ。
みんなが使っているから正しいとは言えないが、みんなが使っているとやがて正しい表現になってしまう。語源が分かっており、出典が明らかな語もあるが、それが本来とは違う意味合いや用法に転じてしまっていることは、長い期間を観察すればたくさんある。
有名作家が使っているから正しい表現だとは言えないし、今若者の間でどれほど広まっているからと言って、それが10年後に残っているとは限らない。
だから、この用語は本来こうだった、この表現の語源はこうなのだ、ということで止めておいて良いのに、それを最後に無理やり結論めいた、と言うより指導めいたことを書いてしまうのが、まさに国語学者の病膏肓に入るという感じがする。
曖昧な書き方をすると、読んだ人が困るかもしれないと心配になるのだろうが、ことばって本来そういうものではないか。辞書ではないのだからそれで良いのである。
著者自身がみだりに断定できないと分かっているので、【結論】と言いながら、どれも歯切れの悪い表現になってしまっているところが可愛らしいとも言えるのだが(笑)
さて、そういう面は確かにあるのだが、それはさておいて、ここに引かれている語源や出典などは、僕が知らなかったこともたくさんあり、読んでいてとても楽しい。だからこそ、こういう本は僕のような人向きなのである。
ちなみに全147 の対比のうち、僕が読んで「あれ? そうだったのか!」と思ったのは下記の6例。いずれも前者が正しい日本語、あるいは本来の言い方で、後者が間違い、あるいは避けたほうが良い表現である:
- 間が持てない/間が持たない
- 愛嬌を振りまく/愛想を振りまく
- ふりの客/フリーの客
- 采配を振る/采配を振るう
- 目をしばたたく/目をしばたく
- 活を入れる/喝を入れる
もしもそんなことができるのであれば、100年後の日本でこの本をもう一度読んでみたい。そのときにはきっと、「ああ、100年前はこの言い方はダメだったんだ」「え? 100年前はそんな意味で使ってたの?」などと驚くと思う。
ことばってそういうものである。
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