映画『ばるぼら』
【12月6日 記】 映画『ばるぼら』を観てきた。手塚治虫の原作漫画を息子である手塚眞が映像化したもの。
僕が初めて手塚眞の作品を観たのは 1983年の『SPh』。もう 37年も前のことだ。当時は自主映画が少しブームになって少しずつ認められる作品も出てきた頃で、この映画もそういうった流れの中で上映された(場所はスタジオアルタの7Fだった)。
他の多くの監督がが文字通り自主映画を、今の言葉に言い換えればインディーズ映画を作っていたのに対し、手塚は当時から映画監督ではなくヴィジュアリストと名乗り、物語ではなく、ひとえにアートを目指していたと思う。
その2年後に、僕は『星くず兄弟の伝説』を観て(これはそこそこ話題になった作品だ)、その 20年後に『BLACK KISS』を観て、それからまた 15年空いてこの作品が4本目である。
酒色に耽る人気作家・美倉洋介(稲垣吾郎)の話。映画の中でそういう表現は使われていなかったと思うのだが、パンフレットに原作漫画の冒頭が掲載されていて、そこでは洋介自らが「異常性欲がある」と告白している。
その洋介が、新宿の地下道の薄暗いところで、酒に酔って浮浪者同然に寝転がっている女(後に名前は“ばるぼら”と判る、二階堂ふみ)を見つけて声をかけたら、彼女はヴェルレーヌの『秋の歌』(上田敏が訳して『海潮音』に載せたバージョンである)を暗唱した。
そこで洋介もそれに合わせて暗唱し、彼女を家に連れ帰る。ばるぼらは臭くて汚くて、自分勝手で大酒飲みで、そしてエロかった。その我がままに腹を立てて一度は追い出すのだが、洋介が色狂いのあまり、人間以外のものと交わろうとしたときに、ばるぼらが現れて助けてくれる。
このシーンはすごかった。ばるぼらが叩きまくって、洋介が交わろうとしていたモノが壊れる。その後にも同じようなシチュエーションが描かれ、同じようにばるぼらが現れて洋介を悪夢から引きずり出す。
結局洋介はばるぼらに取り憑かれたようになる。セックスのシーンがエロくて美しい。パンフレットに「二階堂ふみは丸みがある体型で、原作のばるぼらと同じように、その中に少女性とエロティシズムが同居している」との表現があったが、まさにその通りである。
二階堂ふみはトップ女優でありながら脱いでくれるありがたい存在である。かつては真木よう子も吉高由里子も脱いだが、今この年齢で脱いでくれる女優は珍しい。しかも、きれいでエロい。後背位で振り返って果実を齧る構図は秀逸だった。まさに彼女なしでは成立し得なかった映画だと思う。
やがて洋介はばるぼらと結婚するために、ばるぼらの母親で怪しい占い師(?)のムネーモシュネー(渡辺えり)のもとを訪ねるが…。
今回はどのカットにおいても勝手に映り込んだものはまるでなく、全てが意図されたものに見える。歩く街の背景に映る看板の文字にさえ意味が込められているように思う。
そして、暗がりであったり、派手な人工照明であったり、逆光であったり、木漏れ日であったり、光の使い方が非常に巧くて、映画全編を通してトーン・コントロールも見事に効いていて、とても印象深い映像になっていた。
大変失礼な話だが「手塚監督、随分腕を上げたなあ」と思っていたのだが、エンドロールで名前を見て、はたと思い出した。そうだ、撮影監督はクリストファー・ドイルだったのだ! 古くは『恋する惑星』、『ブエノスアイレス』、『花様年華』。最近ではオダギリジョー監督の『ある船頭の話』。
この撮影監督なしではこのクオリティはなかったはずだ。
手塚治虫というビッグネームのおかげでもあるのだろうが、このドイルをはじめ、役者でも渋川清彦、石橋静河、美波ら巧い連中が集まった。洋介と交わるモノの役だった片山萌美も印象深い。
全体としてはやはり、巷間言われているように、一番しんどかった時代の手塚治虫が自分を投影しているような作品である。それだけにストーリー的な盛り上がりはあまりない。が、映像作品としてはとても面白かった。
エロスがしっかりと捉えられ、描かれていた。
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