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Saturday, November 07, 2020

映画『罪の声』

【11月7日 記】 映画『罪の声』を観てきた。

前に僕は大体監督で映画を選んでいるがたまに脚本家で選ぶこともあると書いた。正確に言うと、この脚本家であれば観るぞと決めている脚本がが何人かいるということで、例えばそれは奥寺佐渡子であったり、あるいはこの映画の脚本を担当した野木亜紀子であったりする。

主にテレビでずっと追っかけてきた脚本家で、最初にこれはすごいと思ったのは2016年の『重版出来!』だった。

その後『逃げるは恥だが役に立つ』、『アンナチュラル』、『獣になれない私たち』、『フェイクニュース』、『MIU404』と、『コタキ兄弟と四苦八苦』(これは初回だけ観た)以外は全部観てきた。いや、単に観てきたというだけではなく、毎回瞠目して、嘆息しながら観てきた。

めちゃくちゃ巧い脚本家だ。映画は『図書館戦争』シリーズ2本と『アイアムアヒーロー』の合計3本を観ていて、当時の記事を読み返すと『図書館戦争』の際にはまだ意識していたなかったのか言及がないが、『アイアムアヒーロー』では名指して褒めている。

さて、この映画を見終わって最初に思ったのは「ようまあ、こんな話考えたな」ということ。てっきり野木亜紀子のオリジナルだと思いこんでいたのであるが、原作の小説があって、しかもそれがいくつか賞を獲った有名な作品だったとは知らなかった。

グリコ森永事件を基にしたフィクションだが、名前だけグリコ・森永をギンガ・萬堂に、「かい人二十面相」を「くら魔てんぐ」に変えて、あとは全部そのままではないかと思うくらいである(事実「キツネ目の男」はそのままである。戎橋の前の看板がグリコからギンガに変わっているのは笑った)。

実際には細部はかなり違うのだろうけれど、こちらの記憶も薄れているので、映画が進むに従って「ああ、そうだった、そうだった」という気になる。ひょっとしたら当時の資料映像をそのまま映画の中に使っているのではないかとまで思ってしまう(そんなはずないけど)。

ともかく、こんなに筋に引っ張られる映画はめったにない。脚本家がどれだけ良い台詞を書き、監督がどれだけ良い演出をして、役者がどれだけ良い演技をして、カメラマンがどれだけ良い映像を撮っても、結局ストーリーに全部持って行かれる感がある。それくらい話が面白いのだ。

迷宮入りした未解決事件の裏側はどうなっていたのを推理して解明してみたいというようなことは、知の営みとしては確かにあると思う。だが、そういうものは大体ノンフィクションとなって世に出るのである。これを、固有名詞を変えて小説にしたというアイデアが良かったと思う。

そして、犯人でも警察官でもなく、脅迫テープに自分の声を使われた子どもたちのその後を、ある意味主人公に据えて物語を構成したのは素晴らしい発想だった。

関西出身の役者も多く起用され、星野源や市川実日子も頑張っていて、ことばの問題はそれほど気にならなかった。強いて言えば、小栗旬は一時期東京に行っていたのではなく、東京出身の大阪転勤者という設定で良かったのではないかな。

で、こういう映画なので、この映画の面白さに野木亜紀子の力がどれくらい与っているのかが分からない。こればかりは原作を読み比べてみるしかないかな。

ネタバレは一切書けないタイプの映画なので、これ以上は詳しく書かない。

さて、仮に犯罪をめぐる真実がこうであったとして、それを映画にするに当たってどういう風に集結させるか、誰にどのような台詞を言わせて終わるかについては、製作者がその良心を問われるところであるが、その辺も良い塩梅であったように思う。そこら辺には野木亜紀子の力量もかなり及んでいるのだろう。

今回はあまり具体的に書かなかったが、とても良い映画だった。ちなみに新聞記者の友人はこう書いている:

新聞記者として必見と思って観ましたが、誰が観ても損はない秀作でした。ただ、文化部でスカスカの原稿書くより社会部でガツンとやったれや~的な古い新聞社像はいまどきどうかと思いましたが(苦笑)。ともあれ、俳優陣の演技は堂に入り、構成も巧み。ちょっと唸りました。

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