『青春の門 風雲編』五木寛之(書評)
【10月19日 記】 高校時代から熱中して読み始めた『青春の門』。あの頃はクラスメートの多くが読んでいた。
第1部「筑豊篇」、第2部「自立篇」、第3部「放浪篇」、第4部「堕落篇」、第5部「望郷篇」、第6部「再起篇」、第7部「挑戦篇」と読み進んできたが、最初に読んだのはもう何十年も前だ。残念ながら最初のほうの記憶はかなりおぼろげである。
このブログには何度も書いているが、そもそも僕は読んだ本も観た映画もすぐに忘れてしまう。「筑豊篇」から始まってここまでの筋をしっかり憶えたまま読み進むなんてとても無理な話だ。
いや、それどころか、直前の「挑戦篇」の記憶さえほとんどない。調べてみたらそれも無理はない。「挑戦篇」を読んだのでさえ9年も前だ。
だから、今回「風雲篇」を読み始めても、「えっと、この人はどういう人だっけ?」、「あれ、なんでこうなったんだっけ?」みたいなことの連続で一向に要領を得ない。
でも、それにも関わらず、面白いのである。面白いから読み進むことができる。読み進むとまた面白いのである。
そして、これはこの大河小説の特徴なのだが、信介はよく過去の出来事を回想する。それは筑豊での幼少時代から直前の江差での暮らしまで、長いレンジでいろんな時代を振り返る。
僕はそれを読んで、自分の脆弱な記憶力に少しずつ肉付けして物語を補って行くことができる。
今回、信介は元新聞記者の西沢らとパスポートもなくロシアに渡る。そこには江差で知り合った少女・襟子も、右翼の大物・影之原も、公安の安川もいる。国家同士の裏取引に支えられた奇妙で超法規的な渡航である。そして、そこにはカオルさんもいる。
残念ながらそこに至る詳細を僕は思い出せない。でも、何かスリリングなことがあったのだ。僕はまるで挑戦篇を読んでいないみたいに自分の想像力でそこをうっすらと補って行く。
そう、信介は常にスリリングなことにさらされている。そして、自らそこに突っ込んで行く。明確な目的もなく、かと言って自暴自棄でもなく、でも、何か固く信ずるところがあって、自ら渦の中に飛び込んで行く。
そういうところだけは筑豊篇からずっと貫かれているのではないだろうか。
書かれている背景はそれぞれの篇によって学生運動であったり、歌謡曲であったり、政治であったりとめまぐるしいが、それが何であれ信介が進み行く姿だけは些かも変化がない。
それを若さに任せた無謀と呼ぶのは容易い。でも、それは我々がすでに昭和の中頃から忘れ始めてしまっている何かなのであり、だからこそ我々読者の心はこの文章に踊り、震えるのである。
信介は今度はアニョータという、ウクライナと日本の血を引く 17歳の少女と、パスポートもないままヨーロッパに向けて脱出しようとしている。
第9部「漂流篇」はすでに Kindle に落としてある。このまま続けて読むことにしよう。
Comments