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Tuesday, September 01, 2020

『一人称単数』村上春樹(書評)

【9月1日 記】 もはや村上春樹以外の何者でもない村上春樹である。しかし、僕がこれを買った Amazon のレビューを見ると結構ひどい評が並んでいる。──面白くない、と。

そうか、これが面白くないのか、と僕は思う。だって、もはや村上春樹以外の何者でもない村上春樹なのに。

僕が村上春樹の小説を読む時、僕の脳裏には音のない映像が浮かぶ。小説だから当然何人かの登場人物が何ごとかを喋っているはずで、しかも、村上春樹の小説には音楽がつきものなのに、それでも脳裏に浮かぶのは無音の映像である。

いや、静かな BGM が流れているかもしれない。しかし、人の声や物音は録音されていない(あるいは消去されている) 。そう、映画やドラマの回想シーンなどで時々使われる手法だ。

村上春樹の小説はそういう小説のような気がする。つまり、人が喋っている時のことを書くのではなく、喋り終わって、次に喋り始めるまでの間を描くような。喋っている今を記すのではなく、過ぎてからそれを回想するような。

ここには8編の短編小説が収められている。

“ガールフレンド”の話であったり、不思議な人物(たまに人物ではなく猿であったりもするが)との出会いの話であったり、村上春樹の小説で何度も読んできたような小説世界がある。

3作目と4作目に、チャーリー・パーカーとビートルズをタイトルに戴いた話がそれぞれひとつずつ。これらは音楽に材を借りた小説のように見えて、実はチャーリー・パーカーやビートルズそのものを描きたかったのではないかという気さえする。

「ウィズ・ザ・ビートルズ」の中にこんな表現がある。

でも、それ以外には何ひとつ音は聞こえなかった。風も吹いていない、犬も鳴かない。沈黙が目に見えない泥のように僕の耳の奥を徐々に塞いでいった。だから何度も唾を飲み込まなくてはならなかった。

これは、僕の“ガールフレンド”のお兄さんが、自分の朝食を作るためにキッチンに消えていったあとの描写だ。

僕はこの部分をなんとなくマークしておいたのだが、今、気づいた。これは僕が上で書いた音のない映像だ。しかし、このひとかたまりの文章の中でひときわ村上春樹らしい光を放っているのは、沈黙に耳を塞がれて何度も唾を飲むという表現である。

こんな風に、ひょっとしたらなんでもない風景や一瞬を、ことばの力で異空間に持って行くのが村上春樹であり、それを楽しむのが村上春樹の読者だと僕は思う。

そのあとのヤクルト・スワローズの話と、「僕が知り合った中でもっとも醜い女性」との音楽を巡る話は、これはどう読んでも小説ではない。

主人公は小説家だし、出身や経歴を見ても村上春樹本人だとしか思えないし、『風の歌を聴け』『羊をめぐる冒険』といった具体的な作品名はおろか、村上春樹という実名まで出ている。

つまり、この作品集の中に小説が6編、随筆が2編あるということだろうか?

いやいや、危ない危ない。デレク・ハートフィールドだって実在しなかったじゃないか、と古いファンは気づく(笑)

もちろん小説の中に小説家の実体験が織り込まれている可能性はある。ただ、これはあくまで村上春樹という名の小説家が主人公の、あくまで小説なのである。

こんな風に(表現は悪いが)読者を嵌めにかかるのも、僕はある種のファン・サービスのように感じてしまう。病膏肓に入るというやつか(笑)

「品川猿」の話はどこかで読んだ記憶があったので調べてみたら、『東京奇譚集』に同名の小説があった。どうやらイメージが溢れ出して2作目を形づくってしまったのだろう。

そして、最後の「一人称単数」。これは詳しくは書かないが、村上春樹がよく翻訳しているレイモンド・カーヴァーのような斬れ味がある作品だ。

しかし、短編集のタイトルにもなっている「一人称単数」って何だ? この短編集は一人称単数で語られた物語を集めたもの──というのは理屈の通らないこじつけだ。

何故なら、そもそも大抵の小説は一人称か三人称で語られるのだから。そして、それは間違いなく単数である。複数形でいっぺんに物語は語れない。

なのに、それをことさら一人称単数と言ってしまうところが村上春樹だと思う。わざわざそう口に出すことによって、僕らを不安に陥れるのである。

ま、どっちにしてもこれはコアなファン向きの作品集なのかもしれない。面白くないという人もいるだろうなと思う。

ただ、村上春樹はいずれにしてもコアなファン向きの作家なのだと、これは言ってしまうと元も子もないけれど(笑)

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