『ジョーカー』
【7月26日 記】 昨夜、WOWOW の録画追っかけ再生で『ジョーカー』を観た。
去年あれだけ評判になってたくさんの賞を獲っても僕は観なかった。
それは、ひとつには僕が邦画を優先しているからであり、もうひとつには、邦画であれ外画であれ、大ヒット作は翌年には大体どこかで観られると高を括っているからでもあるが、「観たあと非常に嫌な気分になる」と聞いて観る気が萎えたということもある。
しかし、見終わって全然嫌な気分にはならなかった。だって、1950年代、60年代の素敵な音楽に乗って、ジョーカーは笑って踊っているんだもの(笑)
そんなことを書くとお前はアホかと言われそうだが、しかし、この部分は決定的に違うと思う。まず、日本人が撮ると、この作品はもっと陰湿で暗澹たるものになっただろう。この映画は狂気ではあるが、苔生す洞窟にいるような陰湿さはない。むしろ発汗したような感じだ。
後味が悪い映画と聞いて、僕は『羊たちの沈黙』とか『セブン』とか『ダンサー・イン・ザ・ダーク』などを思い浮かべていたのだが、それらの映画ともまた決定的に違っている。
何と書けば良いのだろう? 確かにジョーカーことアーサー・フレック(ホアキン・フェニックス)は狂っている。常人には理解し難い程度に狂っている。でも、どこか、心の深い深い奥底で、僕らと繋がっているような気がするのである。
それは、この映画が貧困と格差の問題を取り上げ、観客に社会の矛盾を突きつけているからではない。いや、そもそもこの映画はアメコミ及びハリウッドの代表的なエンタテインメントの一大ヒーローであるバットマンの敵役ジョーカーの誕生秘話なのだから。
Wikipedia にはこう書いてある:
監督を務めたトッド・フィリップスは本作がアメリカの社会格差を風刺する作品として話題を集めたのを認めつつ、映画の超目標はあくまでもアーサー・フレックという個人がいかにしてジョーカーという悪役へ変遷するかを描く人物研究めいた作品であるとコメントしている。
そういう意味で、この映画の一番の欠点は、バットマンを観たことがない人(例えば僕だ)にとっては、全くそんな映画に見えないということだ(笑) そうするとついつい“社会派”の映画だと思い込んでしまう。
しかし、もしこの監督がそういう問題提起をメインテーマとしてこの映画を撮っていたとしたら、大変危ういことになったはずだ。何故なら、この映画を観た人たちが一斉にピエロの仮面を付けて街に繰り出し、裕福な層に属する人間や建物に対して、大々的な破壊と放火と略奪をおっぱじめる危険性が排除できないからだ。
僕はバットマンを全然知らないにもかかわらず、この映画をどちらかと言うとエンタテインメント的に観た。社会を告発する眼ではなく、ひとりの男が狂って行くさまをじっと見守った。
映画から何か1つのメッセージを読み取ろうとするのはバカバカしい。それなら論文にするか街頭演説でもすれば良い。映画はもっと複雑で多様な解釈を許すものである。
この映画のすごさは何と言っても、ホアキン・フェニックスの怪演であり、そして、彼が演じたアーサー・フレックという人物がしっかりと描けているところだと思う。人物が描けていると作品は面白くなる。
横で見ていた妻は、見終わってぐったりして、「これは一体何だったの?」とうっすら笑った。それもまた僕にはよく解る。この映画は一体何だったんだろう?
使われている楽曲がいずれも素晴らしく、そして映画の展開にマッチしていた。良い作品だった。
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