『君がいないと小説は書けない』白井一文(書評)
【5月30日 記】 僕と同じく白井一文を愛読している(と言うか、多分彼のほうが僕より断然多読しているのではないかと思う)知人から「ぜひ読んで書評を書いて読ませてくれ」と言われて手に取った小説だ。
去年も知り合いが二人死んだ。
という書き出しの一文を目にして、「いきなり来たか」と思った。一般にそう言われているのかどうかは知らないが、僕にとってはこの人は常に死生観を語る作家だった。
今回は主人公の大勢の知り合いの死が語られる。
主人公は野々村保古。そろそろ還暦を迎える作家である。父親も時代小説の書き手だった。彼自身は大学を卒業して出版社に就職し、編集者として一応の地位を築いてから、後に作家となる。
妻と喧嘩して家出をし、そのまま妻と中1の息子を捨てて、籍こそ抜かず、経済的にも世帯主の役割を放棄しないものの、事実上の離婚となる。そして、今は十歳以上年の離れた「ことり」という名の女性と、4匹の猫と一緒に暮らしている。
野々村とことりの馴れ初めも詳しく語られている。
さて、この小説、読み始めから、なんか小説ではなくエッセイ、と言うか作家の手記を読んでいるような気になる。
「S編集長」とか「Uデスク」などと、人物の名前がイニシャルになっており、「A社」「C社」などと会社名も匿名になっているところも、これはドキュメンタリなのかと思わせる一因である。
手記のように見せることを狙ってやったのかどうか分からないが、とても変ではないか。小説であれば一般的には人物や団体の名前を考案する。その名前に何らかの意味が込められているか単なる記号なのかは別として。
で、冒頭から暫くは、そのS氏についての物語が語られる。S氏と野々村の関わり合いを通じて、S氏の人生が、そしてS氏の死が語られる。
彼はいまや、一介の死者に過ぎなかった。
いかにも白石一文らしい書きっぷりである。
その次は
弁護士のMさんの訃報が届いたのは去年の夏だった。
で始まる、Mさんの人生、そしてMさんの死の話。
しかし、不思議なのはMさんの奥さんは彩花さん、お嬢さんは夏目さんと、名前で語られている。イニシャルMの弁護士で奥さんが彩花さん、お嬢さんが夏目さんとなると、いくら名前を伏せても、これでは知っている人にはすぐに分かってしまう。
それでは実名で語っているのと同じじゃないか? それで良いのか? と思いながら、ああ、これは小説だったか、と思い直している自分がいる。これは作家の術中に嵌っているのだろうか?
その後もWさんとかA君とか、Iさん、X氏などと、引き続きイニシャルの人物が取り上げられているかと思えば、後半には城石先生とか日南田さんとか永尾さんとか雪ノ下さんとか佐藤裕子さんとか、「実名」の人物が多く出てきて、なんだか妙である。
しかし、相変わらず多くの登場人物の死が語られる。
こんな感じで、この小説は、ある人の話からまた別の人の話へと次々と移り変わって行き、面白くないかと言われるとそうでもないが、例によって死生観が述べられ続けるために結構理屈っぽく、小説的な面白みという意味ではやや物足りない。
我が身にふりかかる出来事を必然ととらえる習慣を身に着けると、人生で起きる様々な現象はみるみる繋がり始めて、それは一つの長い物語となり、私たち自身を魅了するようになる。
と書かれてはいるが、読んでいる僕の中ではそれほど繋がって来ない。
数十年の人生でただの一度も自殺を考えたことのない人間など百人に一人もいないだろう。
と言われて、そうか? 僕は一度も考えたことがないが、などと思ってしまう。
作家によって披瀝される時間と死についての解釈は比喩に満ちる一方で、ある意味理論的でもある。
S氏と私は、お互いを見たときにぴたりとピントの合う双眼鏡をふたりして持ち合わせていたような気がする。
言ってみれば「体験の団子(回転体)」のようなものだ。
過去も現在(場所)も未来も同時にこの世界に存在している。そういう意味で「時間」は存在せず、あるのは場所からの距離ということになる。
これだけ読んでも何のことだか解らないだろうが、ま、独特の捉え方が面白くはある。
ただ、彼の書きっぷりを読んでいると途中から「お前は封建時代の人間か」と言いたくなるほど、彼の思考パターンが古いことが気に入らなくなってくる。
特に男は皆こうだ女は皆こうだという書き方がいただけない。その分析がどのくらい当てはまるかという問題ではなく、そういう類型的なアプローチ自体が根本的に間違っていると僕は思う。むやみに運命論的な感慨も、僕は受け入れにくい。
さて、バラバラだった話は、見知らぬ若い男と歩いている妻ことりを野々村が新宿で見かけたところから、やっとはっきり目に見える流れができてくる。
しかし、妻に対する主人公の猜疑心と、思慮深さゆえの執念深さは、僕から見ると(彼に合わせて封建的な表現を当てると)「女々しく」て腹さえ立ってくる。
ところが最後まで読むと、いろんなことがうまく繋がると言うか、作家の筆致にうまく丸め込まれたみたいに面白く読み終えられてしまう。やっぱり巧い作家なのである。
しかし、それにしてもこの小説、表題の通りの話であり、結局それ以外のことは何も書いていない。ひどい小説である(笑)
そんなことを書くために、これだけ多くの人の死を費やしたのか(笑) この作家ならではの労作ではないだろうか。
結局どっちなんだと言われても困るのだが、結論としては面白い。白石一文を何作か読んだ後のほうが、より面白いと思う。
Comments
リクエストにお応えいただき、ありがとうございました。一応結論として「面白い」とおっしゃるのは、作家・作品の美点を拾いあげようとする yama_eigh氏らしいと思いましたが、それでもやはり他の白石作品に対する書評にくらべると、手を焼いておられる感じがしました。
僕自身は読後感を(書評のような)まとまった形に言語化する修練を積んでおらず、この作品についても、3月9日の日記にまず、
1週間前に買った白石一文「君がいないと小説は書けない」を読み続けているのだが、非常に困ったような気分になっている。
「人生のくだらなさ」について、これほど赤裸々に書いてよいものなのだろうか。
うまく言えそうにないが、これについては放置せず、自分の考えも書いておきたいと思う(今日はやらないけど……そもそもまだこの本を読み終わってないし)。
と記したあと、結局読み終わった3月15日に、
白石一文「君がいないと小説は書けない」、読了。この最新作には、先日も記したように微妙な気分になった。割と頭の良い人が人付き合いをせぬまま考え込むと、こういう迷路(というか隘路というか)にはまり込むのかもしれない。85パーセントあたりから(Kindle版なのでページ数がわからない)説得力を増したように思ったが、結末部分に至って再び「?」の感じに……。
それに、この作品は私小説なのだろうが、いろんなことを赤裸々に書いている一方、双子の弟の白石文郎については全く触れない(父の白石一郎のことは結構書いている)。双子の兄弟がどちらも作家……というのも興味深い題材だと思うのだが。
と記しておしまいにしてしまいました。
うまく言えませんが、僕自身この歳になって「人生ってこの程度のものだったのかな」と思うことがあり、周囲の風景が色褪せていくような、変な感じにとらわれることがあります。そこから脱出できそうな気もするし、まだ完全には無理なような気もするというのが現況でしょうか。
また、本についてあれこれ読ませていただけるのを楽しみにしています(映画はテレビ・DVDで見る程度で、あまりわかりませんが)。
ということで、今回はこれにて失礼します。
Posted by: 野原康宏 | Sunday, May 31, 2020 10:31
> 野原さん
いや、僕は途中はともかく、読み終わってみると、それほど拒否感はなかったですよ(笑)
それよりも、白石一文って本当にお父さんも作家だったんですか。そんなこと全然知りませんでした。この人、確か出版社に勤めてたんだっけかな、ぐらいの知識で読んでました。調べてみたら文藝春秋にいたとかパニック障害になったとか、本当に結構私小説的な作品だったんですね。それを知っていたら感想も違ったかもしれません。僕はあくまで創作なのに私小説っぽい設えにしていると思って読んでましたから。
双子の弟がいて、それも作家なんですか。はあ、初耳だらけです(笑)
Posted by: yama_eigh | Sunday, May 31, 2020 18:25