『夏物語』川上未映子(書評)
【4月14日 記】 若い作家が突然現れて今までになかったスタイルで書いた小説が大ブームを巻き起こしたり賞を獲ったりした際に、その作家や作品に対する毀誉褒貶が割れることがある。
古くは村上龍のデビュー作『限りなく透明に近いブルー』(1976年)や池田満寿夫の『エーゲ海に捧ぐ』(1977年)などがその例だろう(もっともその時池田はすでに42歳だったが)。いずれも賞の審査員のひとりが怒って辞めたりしたはずだ。
そういうことがあると僕はとても興味が湧いてとりあえず読んでみる。
読んでみて、「ああ、この人は本物だ」とか「まがい物だ」とか思うのだが、僕が本物だと思った作家は大体その後も本物らしく本物の作品を書き続けている。そうでなかったのは『なんとなくクリスタル』(1980年)の田中康夫くらいのものだ。
結局のところ、川上未映子もそんな作家の一人だったと言って良い。ただし、僕は2007年の芥川賞のときにはすぐに読まなかった。3年後に『ヘヴン』を読んで「あ、本物だった」「もっと早く読めばよかった」と思ったのだ。
ちなみに、同じように「もっと早く読めばよかった」と思ったのは山田詠美だ。
僕はやっぱり文章の巧い作家が好きで(と言うか、「文章が巧くない作家」なんて存在自体が矛盾していると思う。実際にたまにいるけど)、そういう意味で川上未映子も僕の好きな作家のタイプであって不思議ではないのだが、でも『ヘヴン』の後は何も読んでいない。
それが先日とあるイベントで彼女の対談を聴いて、とても共感し、無性に読みたくなったところに飛び込んできたのがこの作品だ。
東京にいる主人公・夏子のところに、歳の離れた姉の巻子とその娘・緑子が大阪から遊びに来る。巻子と夏子は大阪の笑橋にある、とても貧乏な家で苦労を重ねて育った。──最初はそういう物語が訥々と語られる。
彼らは大阪人なので当然大阪弁で喋る。それを書いている川上未映子も大阪出身であり、それを読んでいる僕も大阪生まれの大阪育ちだ。この小説は大阪弁ネイティブの人には特別染みると思う。大阪弁でしか語れないニュアンスがたっぷり語られているから。
夏子は作家になって、もちろんそれだけでは暮らせていないのだが、ともかく本は1冊出した。しかし、巻子はいまだにスナックで働いている。かつては自分と妹を養うために。今は娘を養うために。
その巻子は今さら東京で豊胸手術を受けると言う。緑子は、巻子には何故だかさっぱり分からないのだが、母親とは筆談以外で喋らなくなっていて、口を閉ざしたままノートに、なかなか訪れない初潮のこととか、鬱屈した思いなどを日々書き綴っている。
かつての悲惨な貧乏暮らしといい、今の家族崩壊といい、なんじゃこの暗い話は?と思う。この話はこの先どこへ行くのだろう?と心配になる。
後半は、ポーンと時代が飛ぶ。巻子と緑子の関係は修復しているようだが、夏子は依然作家として一本立ちはできておらず、藪から棒に人工授精で子供を産みたいと思い始める。
川上未映子は、ここではやや奇抜な家族を描いてはいるが、しかし、決して突飛な設定や展開はない。ぶっ飛んだ表現もない。洒落た比喩もない。ただ、どんなきっかけでどこへ行ってしまうか分からない人間の心の移ろいというものを丹念に描いている。
巻子の豊胸手術、緑子の初潮、そして夏子の人工授精と、ここでは主に女性が、そしてとりわけ女性性が描かれている。僕には基本的に共有できないものばかりだ。だが、それは僕のような男性の読者を決して排除しない。
それは性とか、個々の環境とかを超えた、もっと普遍的な、人間に共通するところを、落ち着いたリズムに乗せて淡々と描いているからだ。川上未映子にはそれができるのである。
作中に登場する編集者が夏子のデビュー作を褒めるシーンがある。
それは設定とかテーマとかアイデアとか、死者とか震災以後とか以前とか、そういうものじゃないんです。それは文章なんです。文章の良さ、リズム。
これは川上未映子自身の小説に対する思いがそのまま表れた文章ではないかと思う。
僕は上で「洒落た比喩もない」と書いたが、例えば
ほんとに自然に破綻したって感じだね。それはもう青信号だけをさあっと渡って目的地につくみたいにスムーズに。
とか
いつのまにかわたしは眠りに落ちていた。それはまるでやわらかな粘土にそっとかたをとられるような眠りだった。
とか、言い得て妙な表現がある。僕が「文章が巧い」と評する根拠の半分はそういうところにあり、残りの半分は作家の人間に対する観察眼と言うか、むしろ洞察力と言うべきものだと思う。
それでないと、こんなストーリーは書けないと思う。読者には予期できない進み行きである。作中では何も起こっていないようであり、しかし、最初と最後では大きく変わっているようであり、でも何がどう変わったのかははっきりした形で表れず、でも、生きるための力に満ちている。
そして、登場人物の一人ひとりが、その歪んだ部分も強い部分も本当に的確に描いてあって、驚くようなリアリティがある。とんでもなくあっぱれな小説である。
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