『遅いインターネット』宇野常寛(書評)
【4月27日 記】 こんなにも頭を使わされる書物を読むのは大学時代以来だ。そこには知的な歓びがある、などと書くと本末転倒であると言われるかもしれないが、そもそもそういう知的好奇心を刺激して“遅いインターネット”に誘うのも著者の狙いのひとつではないか。
とにかくべらぼうな構想の本である。
序章で東京オリンピックと「動員の革命」を語り、第1章では著者の結論の第1である「民主主義を半分諦める」ということをヒントのように提示し、第2章は『アベンジャーズ』で始まり、Ingress と ポケモンGO を経て、仮想現実と拡張現実を語り、ディズニーと Google を対比する。
そして、非日常(+)か日常(ー)かを X軸、他人の物語(+)か自分の物語(ー)かを Y軸として文化を4象限に分け、第三象限の日常×自分の物語がいま、手つかずのフロンティアとして残っている鍵だと語る。
そして第3章ではこの図解がなんと吉本隆明の『共同幻想論』と重ね合わされる。考えてみれば、こういう“読み込み”や“重ね読み”という作業は近来目にしていなかった。
例えば講座派と労農派の論争は、明治維新を何に重ねるかという論争だったし、マックス・ウェーバーをカール・マルクスと重ねて読んだのが大塚久雄だった。僕はこれらの本を大学時代に読んだが、同じ時期に読んで一知半解だったのが『共同幻想論』だった。
宇野常寛の思想は、ある種吉本隆明に収束する。これには大いに驚いた。
しかし、もっと驚いたのは、この吉本隆明を、宇野は今度は糸井重里に重ね合わせてきたことだ。
もう、それ以上は書かない。多分この辺りで止めておくのが、一番興味を喚起すると思うから。
宇野の言う「遅いインターネット」というのは、めちゃくちゃ乱暴に言ってしまうと、「SNS の潮目を読んで、脊髄反射的にテキトーなことを書いて、自己実現した気分になるのはやめて、もうちょっとよく考えようよ」というようなことだ(ちょっと乱暴すぎるか?)
ただ、そんな言説を展開することでは何も変えられず、誰も動かせないということを、著者は身に染みて知っている。だから、まずは構造から変えようとして、まず自分が違う構造のものを打ち込もうとして、こんなまどろっこしい論理を展開して、僕らをそこに連れて行こうとしているのだ。
宇野の思考は東京オリンピックと動員の革命の失敗に対する絶望感に端を発しているように思われる。
しかし、そこから彼は、茫洋たる知の海を泳ぎきって、この遅いインターネット論にたどり着いたのだ。多分、すでにもう何人かの読者が、同じようにこの海を泳ぎきっているのだろう。
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