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Saturday, March 07, 2020

『グッド・バイ』太宰治(書評)

【3月7日 記】 なんでいきなりこんな古臭いものを読んだかと言うと、それは成島出監督の映画『グッドバイ 嘘からはじまる人生喜劇』を観たからで、その映画はケラリーノ・サンドロヴィッチの戯曲『グッドバイ』(2015年初演)を原作としており、その戯曲は太宰治の『グッド・バイ』を原作としていたからで、急にこれが読みたくなった。

太宰治は高校時代にいろいろ読んだから、この短編も読んでいる可能性があるが、何でも忘れてしまう僕のことであるから、読んでいたとしても中身を憶えているはずがない。しかし、映画を観て、この小説は高校生が読んで理解できたとは到底思えないので、どうしてもこれが読みたくなったというわけだ。

と言っても本を買って読んだのではない。僕は映画を見ると必ずパンフレットを求めるのだが、その中にこの小説が全編掲載されていたからである。短い作品だから、パンフレットに全編掲載できたし、短い作品だからあっという間に読めた。

で、最後まで読んで、これが未完の小説であることを初めて知った。そして、サンドロヴィッチの戯曲はこれをかなり膨らませて、と言うか、太宰が書かずに終わったこの先を書いたものであり、もう見事な完成品としか言えないものであることが分かった。

映画を観ているものだから、田島については大泉洋の、キヌ子については小池栄子の顔がどうしても浮かんでくる。とりわけ、舞台でも同じ役を演じていた小池栄子の、ちょっとやりすぎじゃないかと思うほど作った悪声まで脳内に響く。

しかし、原作を読むとこれについては「鴉声」という表記があり、ああ、小池栄子が作ったものではないのだということが分かった。

この原作小説は何しろ途中で終わっているので、どうにもこうにも尻切れトンボで、良いも悪いも評しようがない。

雑誌の編集長の仕事とは別に闇市で稼ぎまくった金で女を多数囲っていた田島が、闇市で知り合った美人の担ぎ屋・キヌ子を偽の妻に仕立てて、女たちと手を切って行く話なのだが、なにしろ2人目の女と別れる前で終わっているのだ。

これは是が非でもケラリーノ・サンドロヴィッチが手掛けた舞台か、稀代の女流脚本家・奥寺佐渡子が手掛けたこの映画を観るべきである。今さらながら、太宰の原作を先に読んでからこの映画を観ればもっと面白かっただろうにと悔やまれて来る。

僕は太宰治についてはもう少し重く暗いイメージを持っていた。それが多分昭和の高校生が読んだ時の太宰の第一印象なんだろう。でも、この本を読んで、太宰がこんなに軽妙な、それゆえ生きる活力に満ちた話を書いていたということを改めて認識した。

ところで、なんとなく思いついて、Amazon でこの本を検索してみると、Kindle版は何と0円となっていて驚いた。そうか、太宰もすでにパブリック・ドメインなのである。彼が暮らしていた時代も遠いものになってしまった。

なんであれ、0円で購入して、自分の Kindle にダウンロードした。また読み返す日はあるのだろうか。

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