映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』
【2月8日 記】 映画『テリー・ギリアムのドン・キホーテ』を観てきた。
あれは多分1989年だと思う。派遣社員としてウチの会社で働いていた女性が映画の話をしているのが聞こえてきた。話している相手は僕ではなかったが、席が近かったので聞こえたのだ。
その時彼女が最近見て面白かった映画として挙げていたのがテリー・ギリアム監督の『バロン』だった。それを小耳に挟んだ僕は、「テリー・ギリアムを観て『バロン』が面白いと言うなんて、なんと面白い女の子だろう!」と思い、途中からその会話に入っていき、後日映画に誘った。
そして、それから2年ほどして、僕はその女性と結婚した。というわけで、ウチは夫婦揃ってテリー・ギリアムのファンである。この映画ももっと早く観たかったのだが、夫婦で交互に風邪を引いてしまったために延び延びになっていたのだ。
しかし、それにしても、この映画はテリー・ギリアムそのものだった。よくもまあこんなストーリーを考えて、こんな台本を書いてしまうものだ。しかもそれを本当に映画にしてしまうところがすごい。何度も挫折して 30年もかかって映画化したおかげで、特撮の技術は進み、ジョナサン・プライスは年をとってドン・キホーテらしくなった。
学生時代にドン・キホーテをモチーフにして自主映画を撮ったトビー(アダム・ドライバー)は、今では売れっ子のCMディレクターになっていた。その彼がCMの撮影で再びスペインを訪れたとき、偶然にもあの時自分が監督した『ドン・キホーテを殺した男』の DVD を手にする。
あの時のロケ地が近いことを思い出してバイクで行ってみると、素人ばかりを起用したあの映画でドン・キホーテ役を演じていた靴職人ハビエル(ジョナサン・プライス)は、完全に頭がおかしくなって自分をドン・キホーテだと信じ込み、訪れたトビーをサンチョ・パンサだと思い込んだ。
──というのが、多分チラシやパンフレットに書かれるあらすじなのだろう。しかし、僕はハビエルが自身をドン・キホーテと思い込んだと言うよりも、ハビエルにドン・キホーテが憑依した、本物のドン・キホーテがハビエルに降りてきた、という捉え方をした。
この2つの見方は一見同じようで全く異なる。
そこかからがもう完全にギリアム・ワールドのはちゃめちゃである。普通なら「あかんやん、それ」となって考え直すところを考え直さずに突っ走るような筋運びである。展開が速くて虚実がないまぜとなって、荒涼たるロケ地と色鮮やかな衣装とセットの組合せで、クラシックなのにポップなのだ。
ドン・キホーテの原作に書かれているエピソードもあるだろう。ギリアム独自の展開もあるだろう。いずれにしても、ところどころワケが分からないところが良い。あくまで演説の原稿のように理路整然としたメッセージを伝えたいのであれば、それは演説でやれば良いのである。
分からないところがあるのに、それがひとかたまりの画音となって観客の頭の中に突っ込んできて、分かったような分からんような、でも、獏とはしていてもしっかりと質量を感じさせる感慨をもたらしてこそ、本物の映像芸術である。
これほど我々の脳を刺激する映像はおいそれとないはずである。ドン・キホーテはどこまでも高潔な騎士であり、そこにイメージを被せられたテリー・ギリアムはどこまでも子供のように好奇心旺盛な映画作家だった。
僕は観た映画をすぐに忘れてしまうので、30年以上前に観た『バロン』がどんな映画だったかなんてこれっぽっちも憶えていないが、でも、この映画を観て「ああ、バロンはドン・キホーテはだったのかもしれない」と思った。ひょっとするとフィッシャー・キングもドン・キホーテだったのかもしれない。
夫婦揃ってすっかり魅了され、しっかり堪能した。
Comments
なんとなく、大兄とご夫人が喋っている横にいたような気がしてきました。そうか、彼女とあなたの結婚のきっかけは映画でしたか。それが、よりによってテリー・ギリアムだったとは出来過ぎ話のような気もします。それにしても、大兄、テリー・ギリアムと相性がよくて、よかったなぁ。
Posted by: hikomal | Saturday, February 08, 2020 17:31