『[映]アムリタ』野崎まど(書評)
【1月17日 記】 野崎まどの名前をどこで知ったかはっきりした記憶がないのだが、そこそこ前から野崎まどの名前は僕の脳裏に刻まれていた。脚本家としての彼の仕事を初めて体験したのはTVアニメの『正解するカド』で、劇場用アニメ『HELLO WORLD』で完全にノックアウトされた。
でも、彼の小説を読んだことはないと思っていた。それでこのデビュー作にして電撃小説大賞メディアワークス文庫賞受賞作を手にとってみた。
ところがそこではたと気づいたのである。僕は彼の『know』を読んでいた。しかも、Kindle を初めて買った時に最初にダウンロードした記念すべき小説である。
僕の場合は読んだ本でも観た映画でもすぐにほとんど全ての内容を忘れてしまうので、読んだことを憶えていないのは決して珍しいことではない。そのために書評や映画評を書いたりしているようなものだ。
となると、書評が残っていないかと探したのだが、何故だか残っていない。どうしてだろう? 当時は電子書籍で読んだものについては書評を書いていなかったのだろうか? 書評が残っていないと当時自分がこの本のどの部分に何を感じたのかが見当がつかない。
ただ、今まであまり読んだことのなかったジャンルだが面白かったという記憶はかろうじてある。
で、まあ、それは置いといて、この『[映]アムリタ』である。井の頭芸大で不思議な映画を作る天才美少女・最原最早と、俳優としてスカウトされて彼女の映画に参加することになった二見遭一の物語。女優としての彼女はこう描かれている:
彼女の演技は模索ではなく、慣れでもなく、言うなれば美しい数式の答えのような、理屈を突き詰めると必然的に辿り着く演技の解なのだった。
その一方で、監督/演出家としての彼女がいる。彼女が書いた完璧な絵コンテを読んだだけで二見は意識を失うほどのめりこんで、気がつくと2日半もそれを読み続けていたことになる。
──という、最初からグイグイ引っ張られる、というかグルグル引き回さるような圧倒的な展開である。二見が最初好きだったのはカメラ担当の画素さんだった。読者は当然彼と画素さんの恋バナ、あるいは最早を入れての三角関係を予期するのだが、そっちの方へは却々進まない。
二見がツッコミ芸の持ち主という設定をされていることもあって、ときに物語はコミカルに進むのだが、終盤の二見自身による謎解きから、読者は一気に持って行かれる。
で、読み終わったのだが、結局肝心なところがよく解らない(笑) 自分なりの解釈はあるにはあるが、多分それは少し外れていると思う(笑) 『HELLO WORLD』のときも、僕の独自解釈は、大勢の SF ファンによる定番の分析とは少しずれていた。
しかし、よく解らないくせに面白いのだ。いや、よく解らないから面白いのだ。いやいや、よく解らないところが面白いのだ。
世の中には解らなかったものが解ることを面白いと感じる人もいれば、僕のように解らないということ自体を面白いと感じる人もいる。一方で、解らないものが解らないまま終わる作品に強烈なフラストレーションを覚える人もいる。
そんな人は読まないほうが良いのかもしれない。僕はそんな人でなくて良かったと思う。野崎まどは解らなくなるための余地を残した作家である。
いや、しかし、ひょっとしたらちゃんと謎解きできていないのは世界中の読者の中で僕一人であって、解らないまま終わって不満を託っている人も、あるいは僕のように喜んでいる人もいないのかもしれない。
そう言えば『正解するカド』もなんだか分からないままずっと来て、他にも録画が溜まってきてしまったこともあって、途中で見るのをやめてしまった。
そういう意味では野崎まどは僕には解らない作家であり、僕には向いていない作家なのかもしれない。でも、好きなのだ(笑)
だって、他の作家には決して書けないであろう突然のこんな表現がとても面白いんだもの:
台無しの空気がよく似合う最原さんは台無しの中を平然と歩いていく。
僕は自分が書いた台無しの書評の中を平然と歩いて行く。
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