『私はあなたの瞳の林檎』舞城王太郎(書評)
【11月26日 記】 読むのは久しぶりだが、舞城王太郎は僕の大好きな作家だ。初めて読んだ『阿修羅ガール』で完全に魅了されてしまった。
そのとき投稿した書評に僕はこんなことを書いていて、
ラップだね、これは。そう、ラップのリズム。
この表現はいまだに自分のお気に入りである。そう、文体にこんなにリズムを感じさせる作家は他にはいないのである。
で、その後、『九十九十九』や『好き好き大好き超愛してる』や『ディスコ探偵水曜日』などを貪るように読んで、でも、こういうジャンルを読み慣れていない者には却々しんどい展開であると感じながら、しかし、リズムに乗ってどんどん読み進める。
軽ーい若者の凝りすぎの流行り物の擬態を纏っていても、基本的にべらぼうに文章が書ける人で、だからその文体をリズム・マシーン代わりにどんどん内容が入ってくる。
と思っていたら、なんだ、この本は。まるで「ずっと前からジュヴナイル純文学書いてましたけど、何か?」と言っているみたいに平易で読みやすい文体、と一見そう思うのだが、
う~んいかにも美術やってる若い子っぽい痛い会話だなと我ながら思うけど、いかにもな会話を素でやっちゃうものなのだ実際にその場に立つと。
(「ほにゃららサラダ」)
って、見てよ、この句読点の使い方。句点が1つと読点が1つしかない。並の作家が書けば読点があと2つか3つか増えるだろ。それに倒置してるし。これ、まさに『阿修羅ガール』からずっと来てる文体であり、リズムなのである。
「私はあなたの瞳の林檎」「ほにゃららサラダ」「僕が乗るべき遠くの列車」の3篇が収められた短編集で、いずれも若い子たちの恋愛の話、と言うか、「ほにゃららサラダ」は美大生だが、他の2つは中学生じゃないか。
でもって、中坊の初恋の話になんで僕が胸ときめかせたり人生考え直したりしてるんだろ?
鵜飼夏央は、その全てを行ったと思う。なぜなら人だから、良いところも悪いところもあるだろうし、良い行いと悪い行いの両方をしてただろうし、その善意は世界を温めただろうし、悪意は冷やしただろう。
それは人だから。
人間は皆そうだから。
(「僕が乗るべき遠くの列車」)
読んで読んで、どこまで読み進んでも愛おしくなるような恋愛が書き綴られている。
「心配」
「大丈夫だよ」
「・・・私、戸ヶ崎くんの大丈夫って好き」
(「私はあなたの瞳の林檎」)
そう、恋愛ってそんな感じのものだった。
僕の中に、君の乗る怖い列車がやってくるのを待ちたいという気分がずっとある。
でも今は、僕が乗るべき列車はそれじゃないんだとわかっている。
(「僕が乗るべき遠くの列車」)
書けるか?こんな文章?──僕には到底書けない。読めるか?こんな文章?──するする読めちゃう。このリアリティは何なんだろう? するっと心の襞に滑り込んでくる。詩だ!
もう、こうなったら、姉妹編の『されど私の可愛い檸檬』も続けて読まずにいられない。
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