『雪の階』奥泉光(書評)
【10月30日 記】 奥泉光を読むのは、調べてみると、『虫樹音楽集』と『東京自叙伝』に次いで3作目なのだが、それがどんな小説であったか例によって記憶がない。でも、この作家は面白いという記憶だけははっきりあって、また読んでみたくなった。
しかし、それにしても随分待たされた。何故なら僕は、今はもう電子書籍しか読まないからで、紙の本が出てから電子化するまでどれくらい待たされるかはその本によるのだが、この本には随分待たされた。
Amazon かどこかで本の紹介文をちらっと読んで、これが 2.26事件のころの話だということは知っていた。でも、結局それ以外の知識はほとんど得ずに読み始めて、それが良かった。
これは果たして典型的な時代小説なのか、単にこの時代を材にとった創作ものなのか、戦争小説なのか犯罪小説なのか、あるいは真犯人探しが中心となる推理ものなのか、それとも超自然的な力を扱ったミステリなのか、あるいは恋愛ものなんてこともあるのか…。
読んでいてどちらに進むのか皆目見当がつかないのである。
主人公は華族の娘であり、女子学習院高等科に通っており、数学や囲碁を得意とする怜悧な頭脳を持ち、ちょっとやそっとのことでは狼狽えたり物怖じしたりすることがなく、かつ飛び抜けた美貌の持ち主でもある笹宮惟佐子である。
最初のほうで、その惟佐子の数少ない友だちである寿子が失踪し、富士の樹海で死体となって発見される。そして、隣で自死していた陸軍士官・久慈との情死と結論される。
そこから惟佐子は友の死の真実を探り始める。それを手助けしたのは、惟佐子の「おあいてさん」(貴族の子供が幼い時にその遊び相手を務める少し年長の一般子女)であり、今は当時としては珍しい女性カメラマンになっている牧村千代子である。
一方で、物語の最初の方で登場し、惟佐子に異常な興味を示すドイツ人ピアニスト・カルトシュタインや、貴族院議員である父の笹宮伯爵の許に集う政治家や軍人たち、そして、近衛士官である兄の惟秀など、ややこしそうな人物が入り乱れて、ストーリーはどんどん違う方向に転じて行く感があって、油断がならない。
その複雑な物語の中心を貫いて描かれるのが惟佐子のひたすら「只者ではない」感じである。外国人も軍人も父も母も恐れない。男を誘うことにも迷いがない。父親が決めたやや鈍そうな婚約者に嫌悪感を抱くこともなく計算ずくで受け入れる。
何よりも、その婚約者が頭を下げて詫びているときに、ひたすら彼の「偉大なつむじ」に魅入ってしまったりしていたりする超然さが清々しいようでもあり禍々しいようでもある。
そして、そんな彼女を描くのに、さらに、どんどん危うい方向に傾いて行く時代を描くのに用いられるのは、ちょっと現代の常人には真似のできない美文調と言うか、漢文書き下しのようでもあり、講談の一節であるかのような大仰な文体である。
年表の上でこの物語が置かれているのは、世界的にはドイツ・ナチスの台頭と日本の孤立、国内では美濃部亮吉の天皇機関説事件と軍部の独走の気配の中である。
これを読んでいると、そんないろんなことが繋がってくる。
確かに当時の日本にはこんな風にナチスの思想に心酔していた者もいたのだろうと思わせてくれる。「日本人がことごとく死滅したときにこそ日本の神が勝利するのです」という解ったような解らんような理屈にもリアリティが出てくる。
しかし、そういう時代背景の前面で描かれるのは、一貫して惟佐子の只ならない感じなのである。
奥泉はなんでこの時代を舞台にこれを書こうと思ったのだろうと、深く考え込んでしまうぐらい、よく分からないのだが、しかし、ものすごく「入ってくる」文章なのである。
全ての伏線が回収されたりはしない。でも、力づくで物語は完結される。
恐ろしい小説である。時代と人物設定と文体と展開が繋がっているようでもありもつれあっているようにも見える。我々は思想と感覚の奥深くに引きずり込まれる。とても恐ろしい話である。
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