« ラグビー・ワールドカップ日本代表チームに思う | Main | 映画『楽園』のパンフレットから »

Saturday, October 26, 2019

映画『楽園』

【10月26日 記】 映画『楽園』を観てきた。

瀬々敬久監督はとりたてて好きな監督ではない。かと言って、別に観るのを避けている監督でもない。

いつも極めてストレートでありながら抑え気味の表現で、それが緊張感を生むのだけれど、僕はもうちょっとケレン味があるほうが好きなのは確かである。

ただ、画が語るという点では、なぜそんなことができるのかと不思議になるくらいの力がある。

この映画も冒頭からの青田の空撮、そして、吉田修一の原作小説のタイトルでもある“青田のY字路”の禍々しさは何だろう?

紡(つむぎ)が豪士(たけし)に「どこかに行きたいですか?」と訊いた、こちらはY字路ではなく、青田のT字路の、行き詰まって宙吊りにされたような感じ。ちなみにこのシーンは物語の進行には直接必要のないものだが、ものすごく印象深いシーンだ。

撮影は鍋島淳裕である。

吉田修一の5編からなる『犯罪小説集』から前掲の『青田のY字路』と『万屋善次郎』の2編を選んだと言うが、監督によるアレンジがかなり施されていて、例えば原作ではそれぞれの物語は独立したものであって交錯しないのだそうだ。

母(黒沢あすか)に連れられて移民として日本に移り住み、貧しい暮らしをしている豪士(綾野剛)。その村で少女が行方不明になる未解決事件があり、直前まで一緒にいた自分をずっと責め続けている紡(杉咲花)。

失踪した少女の祖父でいつまで経ってもそれを乗り越えられない藤木(柄本明)。紡に思いを寄せる元同級生の広呂(ヒロ、村上虹郎)。

以上が『青田のY字路』

一方、妻(石橋静河)を亡くして故郷の限界集落にUターンし、養蜂で村おこしを目論む善次郎(佐藤浩市)と、小さなボタンの掛け違いから何かに付けて彼に反目するようになった村人たち(品川徹、渡辺哲ほか)。

そして、夫を亡くして実家に戻っており、善次郎に仄かな思いを抱き始めた久子(片岡礼子──品川徹が演じた老人の娘役でもある)。

以上が『万屋善次郎』

この近隣の2つの町村の物語が、それぞれのどんよりとした暮らしの中で、そして、故郷を捨てて上京した紡や広呂の生活も含めて、ところどころで交錯する。

タイトルは『楽園』だが、この映画が扱っているのは絶望的に非情な世界だ。多くの人間たちが根拠もない思い込みから誰かを断罪し、そのひとりの生贄によって平静を取り戻そうとし、多くの者が数に頼って異端者を私刑に処し、そのことによって結束を固めている。

ひどい世界である。

でも、監督はそれを不条理なイメージでは描かず、むしろ日常的なものとして描いているところが怖い。

そこからはじき出された者は自らに火をつけたり、骨を埋めた土を口いっぱいに頬張るようなことになる。でも、これは人の心の移ろいという視点から言えば、むしろ日常なのである。

映画を最後まで見ても結局は何が真実だったのか分からない。そこが良い。現実の世界もまたそれほど白黒がはっきりしたものではないからだ。ただただそれを「抱えて生きていく」しかないのである。

最後の幻覚のような場面をどう受け取るか?──それは誰かが解説してはっきりさせるような代物ではない。

綾野剛が最初に登場したシーンの立ち方からして饒舌に何かを語っている。多くを語らない人物であるだけに観客に訴えるものが大きい。

そして、黒沢あすか、片岡礼子、杉咲花の女優たちが本当にすばらしい。パンフレットの中の対談で、吉田修一はその3人が「“山・川・人”という感じで同列に並んでいる」と称している。そして、追い詰められた佐藤浩市の凄まじい演技。

さらに、冒頭で述べたように、画が抑え気味に、しかし饒舌に何かを語っている。この脚本は、いや、この描き方は瀬々敬久でなければちょっとできないな、と思った。タイトルも含めて、いろんな場面を何度も反芻してみる。

エンディングテーマの上白石萌音の歌声が思いの外魅力的で驚いたことも書き添えておこう。

|

« ラグビー・ワールドカップ日本代表チームに思う | Main | 映画『楽園』のパンフレットから »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« ラグビー・ワールドカップ日本代表チームに思う | Main | 映画『楽園』のパンフレットから »