死生観
【9月8日 記】 過日、ジャニー喜多川氏のお別れの会でマッチだったか KinKi Kids の剛くんだったかが、「ジャニーさんもきっと喜んでると思います」と言うのを聞いて、僕はちょっと引っかかった。
最初に書いておくが、僕はジャニーさんに恨みがあるわけでもないし嫌いなわけでもない。近藤真彦氏や堂本剛氏を貶そうとかいう意図もない。ただ、僕は引っかかった。僕にはそういう「故人もきっと喜んでいる」というような感覚がどうしても持てないのである。
だって、故人は死んでいるんだから、もう喜べないではないか?
そんなことを言うと、「何をにべもないことを。こういう時はそういう風に言っておくもんだ」などとたしなめられたりする。
でも、僕には死んでいる人が喜ぶとも悲しむとも思えない。どうしても考えられないし、そんなことはどうしても言えない。だって、もう二度と喜んだり悲しんだりできなくなった状態が死なのだから。いや、仮に喜んだり悲しんだりしているとしても、それは生きている僕らには直接伝わらないのだ。
死後の世界があるとかないとか、それを信じるとか信じないとかいうこととは関係がない気がする。たとえ故人が上空から自分の葬式を見ていたとしても、見られている僕の側で終わっている気がする。だって、基本的にコミュニケーションの手段がないんだもの。
僕にとって人が死ぬってそういうことだ。そして、それは自分が死ぬ場合も同じだ。
そもそも葬式とか告別式とかいうものは死んだ人のためのものではなく、残された人たちの魂を鎮めるものだと僕は常々思っている。
だから、もしも僕が死んで、死んだ僕のために何かをしてやろうという人がいるのであれば、その人のやりたいように存分にやれば良いと思う。
僕自身としては、僕が死んだあと法律で定められた最小限のことをしてくれればそれで御の字である。でも、もし遺族が望むなら別に東京ドームででも日本武道館ででもお別れの会をしてくれて構わない。僕は既に死んでいるわけで、そのことを喜びも悲しみもしない、と言うか、喜んだり悲しんだりする自分はすでにいない。
それが僕の死生観である。
繰り返して書くが、僕は別に近藤真彦氏や堂本剛氏の考え方が間違っているとかどうとか言って非難する気はないし、「そんなことをしたってジャニーさんが喜ぶものか」などと憎まれ口を叩く気もない。
ひとつだけ言えるのは、あの盛大なお別れの会で魂が鎮められた生きている人はたくさんいたんだろうな、ということであり、それは良いことなんだけれど、でも、一方で僕は違うということでもある。それが僕の死生観である。
「淋しい死生観だね」みたいなことを言う人もいるんだろうな。死生観に対して淋しいとか淋しくないとか考える発想が、そもそも僕とは相容れないのだけれど。
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