セックス小説の本流(いや、奔流?)
(このコラムは、シミルボンが白石一文の『火口のふたり』の映画化/公開に合わせて、「カラダの欲望、ワタシの本音」というテーマで募集した企画に応じて書いたもののコピーですが、元々は私がここのブログと並行して運営していたホームページに、2012年5月に書いて掲載していた文章に少し手を入れたものです)
【8月13日 記】 このお題に触発されて「セックス小説」というものを取り上げてみたいと思う(そういうジャンルがあるのかどうか知らないが)。
絵画の場合は昔から裸婦を描く伝統があるからそうでもないのだろうけれど、例えば写真に裸の女性を撮ったりすると、すぐにそれはエロだと言われる。小説も似たりよったりでセックスを描いた途端にポルノだと言われる恐れがある。
もちろん芸術とエロの間に、「ここまでは韓国、ここを越えたら北朝鮮」みたいな明確な境界線があるわけがない。
性欲は人間の基本欲求のひとつだから、それを描くのは文学や芸術の必然である。しかし、それがエロやポルノだと言って排斥されるのかされないのかは発表してみないと分からないのである。そういう意味で、カラダの欲望や本音を描く際には少し覚悟が必要になる。
「セックス小説」というのは物語の中にセックスが出てくる小説、ということではない(そんなものは山ほどある)。セックスの占める割合が多い小説ということでもない。「官能小説」というのとも違う気がする。
なんと言うか、セックスそのものを描いた小説のことである。官能小説というのは、多分それを読んだ人を興奮させることが目的なのだろうが、そうではなくて(別にそうであっても構いはしないが)、セックスを描くこと自体が目的の小説のことである。
セックスを描くと言うと、例えば大御所の作家だと、山田詠美や村上龍などの名前が思い浮かぶ人もいるかもしれないが、彼らの作品はセックス小説と呼ぶには広すぎる。もっと直接セックスを描くことに専心している感じの小説のことを取り上げたいのである。
短篇集である。文学としてはタイトルもきわものっぽいが中身も同じくきわものっぽい。AV男優、レスビアン、ホモセクシュアル、痴漢、スカトロ──設定からしてため息が出る。そしてその描写のなんと巧みなことか!
読んで興奮するかどうかという以前に、よくもこれだけ見事にバラエティに富んだ性を捉えたなあと感心するのである。だからこそ、官能小説と言わずセックス小説と呼びたい。
そして、もう一冊短篇集。南綾子の『ほしいあいたいすきいれて』──こっちのタイトルのほうがなおさら直截的であけすけである。いやいや、そんなにあからさまに言われても(笑)、という感じ。
こちらは表題作と「夏がおわる」の2作しか入っていないのだが、後者のほうが圧倒的にキレがある。ちょっと頭が弱くてセックスが好きな女の子の話なのだが、セックスした日に必ず出会う小学生の男の子が出てくる。
読んでもらわないことには、僕の言わんとすることは決して伝わらないと思うが、こういう深い話は単にセックスが好きなだけでは決して書けないし、しかし、セックスの深淵に通じていなければやはり書けないのではないかと思う。
女性作家を2人並べたが、セックスの本質を書かせるとなると、男性よりも女性のほうが巧いように思う。
男性が書くと往々にしてあまりに自分本意な願望、と言うか、とんでもない妄想を書いてしまいがちで、結局それを読んだ男にも女にも「そんな女はいないでしょ?」と笑われて終わってしまうのだ。
一方、女性が書くと、たとえ全女子共通、女性一般の話にはなっていなくても、なんかセックスという行為の中心の、柔らかいところを衝いてくるような印象があったりする(そんな風に感じるのは僕が男性だからだろうか?)
そんな中で、生涯で読んだ男性作家によるセックス小説の白眉と思える作品がある。樋口毅宏の、タイトルもズバリ『日本のセックス』。
これは長編である。で、この小説は紛れもない、堂々たるポルノだと僕は思う。そして、何と言うか、これは正常位のセックスではない。全編変態である。たまに吐き気を催すアブノーマルである。
だが、セックスというものを余すところなく描き切っている。恐ろしいセックス文学である。あ、こういうジャンルってあるんだ、と目から鱗のセックス小説だった。
では、外国小説ではどうだろう?
中身はただひたすら、もはや若くないカップルが一日中、朝から晩まで、何回も何回も繰り返し繰り返しセックスする話である。よくもまあ、こんなストーリーで小説を組み立てようと考えたものだと思った。ある種すごい発想である。
なんであれ、セックスというのは人間の生活の中でかなりベーシックなものである。食事や排泄のように、しなければ生きていけないものではないが、しかし、生物として繁殖のための衝動はしっかりと我々の本能に刷り込まれているはずである。
そういう行為を、「作品に織り込む」のではなく、そのものを描く文学がもっともっとあっても良いような気がする。
なお、白石一文は僕の好きな作家だが、『火口のふたり』は読んでいない。映画のほうは荒井晴彦監督ということもあり、随分前から観たいと思ってマークしていた作品である。この小説がセックス小説なのかどうか、この映画がセックス映画なのかどうか、それはまだ知らない。
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