『夢見る帝国図書館』中島京子(書評)
【8月27日 記】 映画『長いお別れ』は観たが、それは監督が中野量太だったからで、そもそもそういうテーマは僕の好きな話ではない。映画『小さいおうち』は観なかった。評判の高い映画だったし、邦画好きな僕ではあるが、残念ながら全く観る気が興らなかった。
だから、もし最初に僕がこの2本の映画の原作者として中島京子の名前を認識したなら、この本は読まなかっただろう。
幸いにして彼女の名前は僕の記憶にはなく、何の予備知識もないまま、ある日シミルボンで風信子さんによる書評を読んだ。すると、風信子さんの筆致によるところも大きかったのだが、これが何とも言えず面白そうで、僕はこの本を読まずにいられなくなったのである。
表題と同じタイトルの作中作が何章にも分けて本編内に登場する。帝国図書館だから、明治の初めから第二次大戦ぐらいまでの話だ。だが、その図書館が夢見るのである。──どんな夢を?
いや、夢見る帝国図書館は夢見るだけではない。図書館に通う婦女子に恋するような思いさえ抱いたりする。
その作中作の外側のストーリーは、職業作家として漸く一本立ちし始めた「わたし」が、ある日上野公園で喜和子さんという、一風変わっていて、気風が良くて、幾分わがままで、人懐っこい老婦人と知り合うところから始まる。
2人の奇妙な交際の日常を読み進むうちに、この『夢見る帝国図書館』は喜和子さんが書こうとしてた小説だと判明する。でも、喜和子さんは書こうとは思ったものの、自分には書けそうもないので、作家の「わたし」に書いてくれと言う。
読者はそんな話を追いながら、ところどころに出てきて自分が今読まされている『夢見る帝国図書館』が、果たして喜和子さんが書いた初稿なのか、喜和子さんの願いを容れて「わたし」が完成したものなのかが分からない。
そして、2つの話は交互に進むがいつまでも交わることがない。
喜和子さんが語る自身の生涯は、彼女のあっけらかんとした口調に反して随分数奇なものであった。そして、彼女の言わば「元カレ」であるホームレスの紳士や妻子持ちの大学教授が出てきて、天涯孤独かと思われた彼女の血の繋がった人たちが何人か現れ、読者は次第に目が離せなくなる。
表現が非常に豊かで巧みなのである。喜和子さんが住んでいた「谷中のぼろっちい長屋」を、作者は数行を費やして詳細に書き写し、最後にこう結んでいる。
そこらじゅうに喜和子さんの印みたいなものがあった。
喜和子さんが自ら住み、誇りに思っている上野界隈を表す言葉として、喜和子さんにこんな台詞を語らせている。
ここは上野よ。いつだって、いろんな人を受け入れてきた場所よ。
喜和子さんが話していたこと、書き残したこと、そういう全てを点検して行くと、そこには随分デタラメな部分があることが分かる。それは彼女の創作なのか、いや、むしろ捏造と言うべきものなのか、それとも彼女の言うように本当に記憶がないのか、その辺のところは分からない。
でも、作者も読者も、そんな喜和子さんのとんでもない話を決して非難したり貶したりする気にはならない。作者は終盤に至って、こんなことを書いている。
そもそも何が体験と呼ばれるべきなのか。
この最後の辺りの「わたし」と古尾野先生とのやりとりはとても素敵だ。
如何にも図書館らしい謎解きゲームをも楽しみながら、僕らは柔和な笑顔でこの喜和子さんの物語と『夢見る帝国図書館』全25章を読み終える。
夢から醒めて僕は思う。こんな風に人間を、そして図書館を、はたまた上野界隈の街を、これほどまで温かく魅力的に描ける作家はそうそういない、と。
変な人物が出てくる変な小説である。
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