日記
【6月14日 記】 昔、鍵付きの日記帳というものがあった(今もあるのかもしれないが)。思春期の、主に女子に需要があったのではないかな。自分が家にいない間に親に盗み読みされないために。
子供がいない間にその日記を盗み読みする親もかなりの悪趣味だと思うのだが、それを予期して鍵をかけなければならないというのもなかなか悲しい話だ。
そもそも日記は誰が読むために書くのか? 本当に自分一人が読み返すために書くのか?
高校の授業で教師に聞いた話だが、とある明治の文豪(もう、それが誰であったか忘れてしまった。いや、明治の文豪ではなく三島由紀夫だったかもしれない)は日記に「尾籠な話だが」と書いていたそうな。自分ひとりが読むのであれば、わざわざ「尾籠な話だが」などと断る必要はない。
つまり、文章を書くことを生業にする作家ともなると、日記でさえ、最終的には他人に読まれることを前提に(あるいは、視野に入れて)書いていたということだ。
僕も iPhone で100年日記を書いているが、これは完全に自分のためだけのものである。別にひた隠しにしなければならないようなことが書いてあるわけではないので、他人に見られて困るものではない。
でも、作家の書いた日記と違って、そこにあるのは無名人の周囲の単なる事実の羅列でしかなく、他人が読んでもこれっぽっちも面白くないだろう。
ただ単に「ああ、去年の今日はこんなことをしていたのか」「そうか、あの事件があったのは3年前の今日か」などと思い出すためだけに書き残しているのだ。
日記の持つ意味合いは、多分、人によって随分違うのだろう。それによって書く作法も自ずと異なってくるのだろう。
いずれにしても、日記をスマホに入れて持ち歩けるようになったので、もう鍵付きの日記帳は必要ないのかもしれない。
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