『炎上論』茂木健一郎(書評)
【6月25日 記】 本筋とは違うところでちょっと驚いたのは、この本は目次こそあれ、本全体についての「まえがき」もないし、各章の文章も導入めいた書き出しがなくいきなり本論が書いてあるということ。
もはやこういう書き方をしないと、昨今の読者は読んでくれないのだろうか? あるいは、これが茂木健一郎自身が良いと思っている茂木健一郎の書き方なんだろうか?
本たるものは目次があって、まえがきがあって、各章はゆっくりと書き出して次第に核心に迫って行くものであるべきである、などと断罪するつもりはない。
ただ、僕自身は読者として、そういう風に静かに段々と引きずり込まれて行く過程を大変楽しく思うので、ちょっと勝手が違って肩透かしにあったような気分なのだ。
茂木健一郎という人は、いろんな固定観念に囚われずに自由にものを考えられる人だと思う。でも、こういう書き方をされると、この人もある程度何かの型に嵌っているのかもしれないと思ってしまう(もちろん、僕は茂木とは逆の型に嵌っているわけだが)。
ライターの織田孝一との対談部分では、茂木は一方で「世代で分けるつもりはないけど」などと言っておきながら、別のところでポロッと「いやいや、ドイツはダメでしょう。マインドセットとしては、かなり古いですからね」などと一括りにしてしまう。
いろんなものにどれほど囚われずに考えようとしても、人はどうしてもどこかの地面に足を奪われてしまうことがあるのだ。
いや、だから茂木健一郎はダメだ、とか、茂木健一郎だって所詮我々と同じレベルでしかない、とか、そんなことを僕は言おうとしているのではない。この本はそういうことに気づかせてくれる本だということが言いたいのである。
この本に関しては、僕は「なるほど、そうかもしれない!」と驚くよりもむしろ「そうなんだよね」という感じで淡々と読み進むことのほうが多かったが、小気味よく心に響く表現がこの本の随所にあるのは事実である。
そうなのである。私達は、発話してみなければ、自分が何が言いたかったのかを発見できないのだ。
むちゃぶりでハードルを越えたときほど、脳の報酬系が活性化することはない。
などと、如何にも脳科学者らしい発想と表現に説得力がある。
そのとき、君は、英語のミュージシャンになる。気持ちが伝わる。人の心を動かすことができる。
などと詩人みたいなことも言って鼓舞してくれる。
だけど、僕らにとって大切なことは、茂木健一郎の言うことを絶対的な解と捉えてそれを記憶して実践することではない。
まずは固定観念に囚われず、しかし自分流に他人とのコミュニケーションを図ること。──そこから先何がどうなるのかは誰にも分からない。
これはそういうことに気づくきっかけを与えてくれる本である。タイトルの「炎上論」というのは嘘である。そんなことはごく一部にしか書かれていない。
ひょっとしたら、このインチキなタイトル自体が何かのカリカチュアかメタファーなのかもしれない。──そんな風に考えてみるとそれもまた面白い。
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