映画『旅のおわり世界のはじまり』
【6月15日 記】 映画『旅のおわり世界のはじまり』を観てきた。いやあ、えらいもんを観てしまった。
監督・脚本は黒沢清。カメラはいつもの芦澤明子。ウズベキスタンでのオール・ロケによるロード・ムービーである。
この映画で初めて、世界史で習ったシルクロードのサマルカンドが現在のウズベキスタンにあるということを認識した。
前田敦子が扮するバラエティ番組のリポーターがそこから首都のタシケントまで移動しながら撮影をする。撮影隊は3人。
ディレクターの染谷将太はすぐに「この番組の視聴者はそんなことは求めてない」みたいなことを言って他人の提案を却下する。幻の怪魚を撮る当てが外れ、地元のウズベキスタン人が悉く約束を守らず言うことを聞かないのでカリカリ来ている。
カメラマンの加瀬亮はちょっとやさぐれた感じだが、仕事ぶりはクールで、この取材旅行ではディレクターよりも実権を握っている感がある。
そして、みんなに気を遣い、よく働く撮影助手兼AD兼、その他もろももろの雑用・段取りをひとりで引き受けているのが柄本時生だ。
さらにそこに現地人の通訳がついている。僕はてっきり日本に留学中の素人のウズベキスタン人を抜擢したのかと思ったが、その正反対で、全く日本語ができないウズベキスタンの人気俳優アディズ・ラジャボフだった。演技が自然なのも尤もだが、日本語が自然なのに驚いた。
前田敦子のリポーターは最初から「なんで私がウズベキスタンくんだりまで」という軽い忌々しさを撒き散らしながら、それでも気を取り直して一生懸命リポートする。それをディレクターやカメラマンや現地の協力してくれるはずの人からダメ出しを食らう。
そんな画の連続で、とりたてて何も起こらない。というか、まるでイラン映画みたいな行き当たりばったり感がある。この話が全て最初に書かれた脚本通りに進んでいるとしたら、よくこんな脚本を書いたものだと思いながら観ていた。
まるでドキュメンタリを見ているような感じなのである。
いや、カメラの動きを見ていると、明らかに最初にデザインされたプランに沿ったカット割りだと分かるのだが、それでも時々ルーズの画でカメラを固定したりされると、本当に脚本も絵コンテもなく撮影しているのではないかと思ってしまう。
ところが不意に2人の人間のアップを順番に切り替えしてきたりしてくるので、急に現実に引き戻される。いや、急にフィクションに引き戻される、とでも言うべきだろうか。
ウズベキスタン人の日常が、遥か日本から旅してきた撮影クルーにとっては紛れもない非日常なのである。その非日常の中を、前田敦子がまるで臆することなくバスに乗ったり歩いたりして、街の外れまでひょこひょこ出かけていく。しょっちゅう道に迷う。怖い思いをする。
そう、映画の主人公の女性リポーターが、ではなく、前田敦子がひょこひょこ出かけて怖い思いをしているように見えてしまう。
そういうスリルを別とすれば、全体として中盤こんなに退屈で面白みのない映画はない。と言うか、そこで起きている事象にどんな意味があるのかよく読み取れないのである。なのにまるで何かが沈殿するみたいに、心の底にいろんな思いが積もってくる。なんとも言えないこの感じ。
最後の山上のワンカット・ワンシーンの圧倒的な画で映画は終わる。え?これで終わり?と思う人もいるかもしれない。僕は思わなかった、と言うか、このシーンが始まったときに、あ、このシーンで終わるんだな、と思ったけど。
そして、ここで旅はおわり世界がはじまるのである。なんと深いタイトルだろう。
これは今まで見たこともない黒沢清だし、間違いなく黒沢清の代表作となるだろう。
Comments