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Thursday, June 20, 2019

『ニムロッド』上田岳弘(書評)

【6月20日 記】 不思議な小説を読んだ。

主人公の名前はカナ書きするとナカモトサトシ──ビットコインの考案者とされる謎の人物と同姓同名だ。事実この小説は、主人公が社長の気紛れからビットコインの採掘に従事させられるところから物語がはじまる。

でも、この小説は、ナカモトサトシと聞いてピンとくるような、そんな IT好きの読者を想定したものではない。

説明がやたら丁寧、と言うか、主人公はホスティングとハウジングの会社に務めるまでサーバーという言葉を知らなかったなどと、とても知識レベルが低い、というか、ありえない設定である。そうまでして最初に「サーバー」という用語を説明する必要があるのか?

「NAVER まとめというサイト」みたいな記述が出てくるところも引っかかる。なんでわざわざ「というサイト」と書く?

これらをどうして登場人物の台詞としたのだろう? IT の会社に務める中本たちは当然知っているものとして、地の文で説明すれば良いではないか?

それをしないのは、とりあえずこの設定は単に借りてきた設定であって、何も必然的な設定ではなく、そのことによって読者を逃したくない、ということなのか? うん、確かにこの、最初から宙に浮いたような雰囲気を醸し出すには有効な道具立てであったのかもしれない。

ま、なんであれ、中本は社長に言われて、自分ひとりの新しい課に移り、会社で休眠しているサーバを何台か使ってビットコインの採掘を始める。

登場人物はあとふたり。

ひとりは田久保紀子。中本より少し年上、30代後半の、証券会社でバリバリ仕事をしている感じのバツイチの女性。結婚していた時代のトラウマを抱えている。

中本の「恋人」という言葉で括ってしまって良いのかどうか、とにかく肉体関係はある。彼は時々彼女に呼び出される。

そして、小説のタイトルとなっているニムロッド──こちらは荷室仁の愛称、と言うより、おそらく自分で考案したハンドルネームだろう。彼はかつては中本と机を並べて働いていたが、心を病んでしばらく休職し、復職の後は名古屋支社にいる。

そして、彼らは日々ネット上で会話をし、たまにはリアルに会って話もする。

ニムロッドは中本にいろんなメッセージを送ってくる。「ねえ、ナカモトさん、どう思う?」と書き添えて。

最初はNAVER まとめにあったという「ダメな飛行機コレクション」。その後が、昔から小説家を目指していたニムロッドの最新の小説。そこでは「人間の王 ニムロッド」が高くそびえ立つ塔の上にダメな飛行機コレクションを並べている。

これは読了後に調べて知ったのだが、旧約聖書にあるバベルの塔の建設を命じたのがニムロドという名前の王だそうだ。

大きなことは何も起こらない。そして僕は大きなことが何も起こらない小説が好きだ。何故なら、大きなことが何も起こらないのに面白い小説というのは、間違いなくとても巧い作家、書ける作家に違いないから。

一気に流行ってすでに廃れ始めている表現を借りて形容すると、これほど「エモい」小説はない。まさに「エモい」という漠然とした表現でしか、この面白さは表せない。

寓意に満ちている──と言うのは多分読み込みすぎだ。もっと筋肉を弛緩させて読んだほうが良い。

荷室は言う。

サリンジャーだよ。
ただごろりと文章があるんだ。

突然のサリンジャーの登場に読者は驚く。そして、今までサリンジャーをこんな風に捉えた文章はあまりなかったはずだ、とも思う。

意味なんて知らない。展望があるかどうかも知らない。(中略)僕と同じ駄目な人間が皆そうであるように、この文章はただ、ごろりとここにあるだけなんだ。

ニムロッドのダメな飛行機が、そして、悲しくもないのに中本の左目から流れる涙が、にゅるりと僕らの脳のシワの間に染み込んでくる。

Amazon のレビューを見ると真っ二つに斬って捨てたような評が少なからず並んでいる。そうか、世間はもうすでにこういうエモいものを味わえないのか。

道理でこの流行語がすぐに廃れ始めるはずである。でも、この小説が芥川賞を受賞したのだから、まだ世間は捨てたものではない。

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