『静かに、ねぇ、静かに』本谷有希子(書評)
【5月2日 記】 この本から教訓を読み取ろうとしてはいけない。だって、ここにあるのはただの悪意だもの。あるいは毒かもしれない。悪意や毒からは教訓は読み取れない。
本谷有希子の本を読むのは実はまだ2冊めでしかない。あとは新聞に連載していた記事を読んだ程度。彼女の芝居は一度も見たことがない。僕の記憶に強烈に残っているのは彼女の小説を原作とする映画『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』だ。
そこにあった悪意がここにもある。あそこにあった刺すような洞察がここにもある。
ここには3編の短編が収められている。
最初の「本当の旅」は3人の若者(でもないか)がクアラルンプールに旅行に行く話。グループ・ライン、インスタ、自撮り棒──そんなものを駆使しながら、「意味がない行動を大事にする僕でありたい」という独特の思いを一生懸命実践しようとする。
その結果、彼らは見知らぬ国でどんどん窮地に陥って行く。いや、嵌っていく当人たちよりも、読んでいる読者のほうが怖い思いをしてしまう。彼らが窮地に陥るさまが怖いのではなく、どんなにひどい目に遭っても、そして、この先もっとひどい目に遭いそうな気配の中でも、それを前向きに解釈しようとする彼ら3人が怖いのである。
その3人を、著者は明らかな悪意を以て描いている。
次の話は「奥さん、犬は大丈夫だよね」。夫が勝手にキャンピングカーでの旅行を決めてくる。そのキャンピングカーは夫の同僚が借りてきたものだが、夫は実はその同僚とほとんど口をきいたことさえなかった。
車には夫の同僚である大男と、年の離れた奥さんと、桃子という名の犬が乗っていた。奥さんは倹約家で、ひどくまずいコーヒーを作って持ってきていた。その中には犬の白い毛が混じっていた。
そういうバツの悪い、先の思いやられる旅を、著者は悪意を以て描いている。
3つ目の話はもっとひどい。「でぶのハッピーバースデー」。2人揃って失業した夫婦の話。「でぶ」という主語で語られる登場人物がもうひとりいるのかと思ったら、そうではなくて妻がでぶだった。夫は妻に向かって「なあ、でぶ」と呼びかける。
妻はひどい乱杭歯で、夫はそのせいで幸せになれないと思っている。
そんな夫婦を作者は悪意を以て描いている。
でも、悪意と言っても、遠く離れた高みから不幸な人たちを蔑むように投げかける悪意ではない。ちょうど3つ目の短編の中に出てくる表現である「まるで自分達が突き落とされかけている崖の縁に手をかけて、底がどうなっているのか覗き込もうとしているみたい」な描き方なのだ。
つまり、書いている著者も、読んでいる読者も、ともに自分たちに向けられた悪意の中にすっぽりと包み込まれていて、その悪意の先にある不幸の底なし沼を見つめているような居心地の悪さを感じている。
そこがこの作品の一番怖いところであり、この小説家の一番すごいところではないかと思う。
こんな小説を書くほうも書くほうだが、読むほうも読むほうだ。でも、一度この悪意に絡め取られると、僕らはここから抜け出すことができないのだ。もし、あなたがこの本を読んでしまっているなら、すでに手遅れである。
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