『インヴィジブル』ポール・オースター(書評)
【5月29日 記】 2009年の作品だが、邦訳としてはこれが最新刊となるオースターの長編。僕もそのほとんどを読んでいるが、もう何冊目なのか定かでない。
読み始めるとすぐにそれはオースターである。もうどこから見てもオースターでしかない。
オースターが書いているんだからそりゃオースターでしょ、とオースターを読んだことのない人なら言うかもしれないが、すでに何冊か読んでしまっている読者にとっては、これは全くオースターでしかない、「オースターでしかない」としか形容できない小説世界なのだ。
ストーリーはゆっくりと動くようでありながら、いつの間にか僕らは何だかざわざわした気分になり、気がついたら宙吊りにされている。でも、宙吊りで固定されているのではなく、どこか予想できない方向に強い力で静かに引っ張られている。
そう、サスペンスである。サスペンスという言葉はそのまますっかり日本語になってしまっているが、基本的に意味するところは「宙吊りにされた状態」である。
そして、タイトルのとおりインヴィジブル。見えないのである。
僕らが通常小説に期待するのは、見えなかったものが次第に見えてきて、全体にはっきり見えたところで結末を迎える、というスタイル。ところが、現実の世界がそんなにくっきりとしたものではないように、この小説でも見えないままのものがたくさんある。
さらに、この小説では書き手が変わる。章ごとに変わる。これが小説本体だと思って読み始めたら、それは他の人物が書いた文章の長い長い引用であったりする。さらに読み進めると、実はそのままの引用ではなく最初の書き手以外の手の入った文章であったりもする。そして書き手が変わる。
書き手が変わってものの見方が変わるのは当たり前として、前と後で全く逆の記述が出てきたりもする。そうなるとどちらかが嘘をついている。何が小説の中の真実なのかが見えない。
でも、そもそも小説の中に真実なんてあるのか、いや、ならば現実の世界には真実なんてものがあるのか?
一応出だしの部分のあらすじを書いておこう:
大学生のアダムは、あるパーティで出会った金満家の中年男ルドルフ・ボルンから、アダムが編集長を引き受けてくれるなら文芸誌の創刊に出資しようと唐突に言われる。どことなく常軌を逸した雰囲気のあるボルンに警戒する気持ちはありながら、世間を知らないアダムは結局その申し出を受けることにする。
ところが、アダムと、彼の恋人(?)であるマルゴと行動をともにするうちに、事件はある日突然起きる。
──説明はそのぐらいで良いだろう。あとはこのインヴィジブルな小説を目をしばたかせながら読むが良い。そして、小説は唐突に終わる。読者の宙吊り状態はどうなっただろうか?
でも、そのあとはもう訳者である柴田元幸のあとがきを読むぐらいしか、読者にできることはない。
Comments