『デジタルネイチャー: 生態系を為す汎神化した計算機による侘と寂』落合陽一(書評)
【3月13日 記】 落合陽一の出演するイベントには何度か行った。でも、彼が書いたものを書籍という形で読むのは『超AI時代の生存戦略』以来まだ2冊目である。しかし、なんであれ今回も面白い。どういう面白さなのかと言うと、圧倒的にスリリングな面白さである。
それは僕らがものを考えたりまとめたりする上で前提となる基本的な認識だと思っていることを悉く覆してくれるからだ。いや、覆すとかひっくり返すとか、そんな感じじゃない。それが決して前提でも基本的認識でもないということが落合陽一には初めからきっと見えているのだと思う。だから初めからそういうこだわりがない。
デジタルネイチャーという造語を「計算機自然」という、形容矛盾を内包する日本語に逆翻訳する辺りが如何にも小憎らしい。
でも、本当にこんな風に機械と自然が融合してしまう時代が来るんだろうか? 人が自分の興味のある情報しか仕入れなくなってどんどんオタク化してくる一方で、自分の興味のない分野のことは AI がネット上に記憶していてくれるからそれで大丈夫なのだという楽観論は本当に大丈夫なんだろうか?
そういう意味で今回のこの本もやっぱりやや危ない匂いはする。でも、その不安の衣を1枚ずつひっぺがすみたいに、落合の論考は続く。
この本の副題を見よ。なんだろう、このミケランジェロ的な学際的知性の膨大な広がりは。第2章の表題の通り、人間機械論とユビキタスと東洋的なものがごちゃまぜに、しかし有機的にひとつになっている。
僕は大学時代に大塚史学批判というのをやっていた。大塚久雄の史学は言わばマルクスとウェーバーの重ね読み的な資本主義感なのだが、それがこの本の中で扱われているので驚いた。
そして、僕は「 virtual を『仮想』と訳したのは誰なんだろう? この訳は大失敗だ」と思っていたのだが、落合陽一も同じことを言う。
彼は virtual の対義語は material だとして、それぞれを「実質」と「物質」と訳してみる。
──その辺の、僕の興味関心や経験と重なるところは僕にもついて行けるのだが、そこから先、量子化とかホログラム技術とか、果ては侘び寂びまで出てくると、さすがにとてもついて行けなくなる。なのにめちゃくちゃ面白い。ここが落合陽一のミソである。
「もはや人間だけが真理を定義する存在ではない」という辺りの表現が彼一流のロジックである。「オープンソースの精神を内包した資本主義の世界は非中央集権的なので、『持てる者』が積み上げた価値は短期間でリセットされ、万人に共有される『下駄』となる」のである。
これはまさに時代とパラダイムの超克ではないか。
そして最後に落合陽一の実験やアート作品の解説が載っているが、これは文字面では却々分かりにくい。是非とも彼の作品発表の場や彼が登壇するイベントなどに行って自分の目で確かめてほしい。そうするとこの本はもっと面白く、もっと信憑性を帯びてくるだろう。
この知的なバケモノを僕らが楽しまない手はない。そして楽しむ以外に未来を拓く方法はないのではないかと、そういう確信に至らしめるのがこの著作である。
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