ambiguity と ambivalence
【2月17日 記】 wowow から録画しておいた『スリー・ビルボード』を観た。どう書けばいいのだろう。ひと言ではとても言い表せない。ただ、さすがにキネマ旬報ベストテンの外国映画部門第1位に輝いただけのことはある。
とある田舎町に娘がレイプされた果てに殺された中年女性がいる。彼女がある日思い立って、人気の少ない街道沿いの、今は何も貼られていない3枚の看板に広告を出した。自分の娘を殺した犯人が何ヶ月も捕まらないことを憤って、警察署長をなじる内容だった。
田舎の警察署長と言えば、役職としては地方の名士である。役職だけではなく、実際に彼は人柄も良くみんなから慕われていた。おまけに彼が膵臓がんで余命幾許もないことは住民全員が知っている。
そんな所長をなじる看板を出したりすると、波紋が起き、彼女への風当たりが強くなるのは目に見えている。
加えて、田舎の警察官は署長のような穏健な男だけではない。差別意識丸出しで権力を振りかざし、平気で暴力を振るうような奴だっているのだ。
そんな彼女と他の住民と警察官たちの確執を描いた映画だ。いや、確執を超えて、それは明らかに非合法暴力による抗争である。
ここで描かれているのは、しかし、正義と悪の分かりやすい対立や対比ではない。それらがものすごくぐちゃぐちゃに入り乱れた人間という存在が描かれている。
日本の物語がこういう話を描くと、それは往々にして「最初は悪い奴だったが次第に改心して良い人間になった」とか「最初はただの嫌な奴に見えたが、辛抱してつきあっていたら良いところも見えてきた」という風に、時間軸を中心に据えて変化を描こうとする。
そうではないのだ。
僕はこの映画を観ていて2つの英単語を思い出した。それは僕のここ10年くらいの生きるテーマでもある。
それは ambiguity と ambivalence である。綴りも意味も少しずつ似ている。
ambiguous とすると「曖昧な」という訳語がすぐに浮かんでくるだろうが、ambiguity はその名詞形である。正確に言うと、単に意味がはっきりしないというのではなく、ひとつのものの中に複数の意味があること。
それに対して ambivalence は何かに対してひとりの人間が相反する2つの感情を持つこと。
似ているようで少し違う。そして、人間が生きていく中で、この2つは常にどこかにある。
僕はそのことを強く感じた。
主人公の女性も暴力警察官も、いい奴とか悪い奴とかではないのだ。最後にはともにいい奴っぽく見えるかもしれない。でも、彼らは基本的に依然としていがみ合っていて必ずしも和解したわけではない。それでも一緒に人殺しに行こうとしている。でも、台詞のやり取りを聞いていると殺さないかもしれない。
ambiguity と ambivalence はそこら中にある。
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