『陰翳礼讃』谷崎潤一郎(書評)
【1月8日 記】 谷崎の『陰翳礼讃』が面白いという話は折に触れて聞いていた。だが、何となく手を出しそびれて読まないままになっていた。僕がとにかく時間があればます現代文学を読みたいということもある。
でも、少し気になっているから、いろんなところで目に触れたり小耳に挟んだりする。例えば、関西にいた頃によく行った有馬温泉の陶泉御所坊という老舗旅館の、仄暗い廊下に置かれた本棚に並んでいたりする。
結局、何がきっかけになったというわけでもなく、僕はこの本を電子書籍で手に入れて Kindle で読んだ。読み始めるまで、この本が小説なのか戯曲なのか評論なのかそれとも随筆なのか、そんな予備知識さえなかった。
読み始めると、これが面白い。東洋と西洋の、主に照明に焦点を絞った比較文化論である。
建築や照明から世の東西を較べ、そこに暮らす人の内面を語るというのは却々知的な試みである。谷崎は日本家屋の日常の中に、普段我々が気づきもしない特徴を見出している。
日本の屋根を傘とすれば、西洋のそれは帽子でしかない。
などと、比喩がいちいち面白い。いや、気候風土や人種の違いだけではなく、谷崎の発想は写真や音楽にまで拡張されて行く。
そこでわれわれは、機械に迎合するように、却ってわれわれの藝術自体を歪めて行く。
とまで言っている。
美と云うものは常に生活の実際から発達するもので、暗い部屋に住むことを余儀なくされたわれわれの先祖は、いつしか陰翳のうちに美を発見し、やがては美の目的に沿うように陰翳を利用するに至った。
と明快に論旨は深められて行く。
そんなものこじつけじゃないか、という人もいるかも知れないが、文化論というのは敢えて言えば視点や切り口の新しさを競うようなところがあるもので、我々はその着眼をこじつけと嗤うのではなく、それを知の営みとして称え尊ぶべきなのである。
そして、そんな風に西洋と東洋(とりわけ日本)を比較してその真髄を発見して行く様が面白いだけではなく、今の時代の我々が読むと、必然的にそれは、昭和の初めの発想や感覚と平成の終わりのそれとのズレに気づく。それがまた面白いのである。
例えば、鉄漿(お歯黒)を風情のあるものと捉えたりするのは理解できないし、「日本人は銀器や銅器に錆の生ずるのを愛す」とまで書かれると、さすがに今の時代、その感覚はよく分からない。
とは言え、全体として見ると、ここに書かれているような感覚は、大凡日本古来の、日本人共通のものであるとしてむべなるかなと思うのも確かであり、例えば前述した陶泉御所坊の暗い佇まいを実際美しいものとして捉えている自分がいる。
でも、結局のところ、今の僕らにとっては、普段の生活はやはり、当時の文豪が嫌った電灯の下で過ごしたいし、風情よりも便利を優先したいものであって、そういう日本的な美意識を再確認するのは旅行や観光などの晴れの場に限られるようになってしまったのではないだろうか。
それが現代の日本なんだろうなと思う。言わばこの本を LED の照明の下、Kindle で読み耽っているようなものである。
こういう題材はともすれば老人の繰り言風になってしまうもので、最後のほうは谷崎自身もそのことに気がついているところが面白い。だが、先哲の話というものはいつも面白いのだ。
谷崎は最後にこう書いている。
まあどう云う工合になるか、試しに電燈を消してみることだ。
なんと味わい深い言葉だろう。
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