『不死鳥少年 アンディ・タケシの東京大空襲』石田衣良(書評)
【1月4日 記】 何度か本屋で手に取ったものの、結局一度も読まないまま年月を経てしまった作家がいる。僕にとって石田衣良はそういう作家の一人だった。
前から興味はあったので、今回、シミルボンと NetGalley の合同企画に応募して発売前に読ませてもらうことにした。こういう企画は非常にありがたい。
さて、タイトルもちゃんと確かめずにダウンロードした電子書籍を開いてみると、予想に反してそこにあったのは、池袋西口公園を舞台とする若者たちの話でも、月島辺りの4人の少年たちの連作短編でもなく、なんと第二次大戦下の東京下町の物語だった。
僕は著者とほぼ同じ年代だが、僕らの世代にとってこの時代というのは少し微妙である。
これが遠い江戸時代や戦国時代の小説であれば、読んでいてそれほど引っかかることはないだろう(もちろん、登場人物があまりに現代的な考え方をしているような場合は別だが)。だが、この時代については、僕らは祖父母や両親、そして学校の先生たちからも、実体験としてのいろいろな話を聞いてしまっている。
それだけに読んでいてあちこちで「本当にこんな感じだったんだろうか?」、「この時代にそういうものはなかったのではないか」、「そういう言葉遣いは戦後どころか、昭和の終わり頃に生まれたものではないか」などといろいろなことが気になってしまう。
ひとことで言ってしまうと、戦中派の作家が書いたものより、どことなく嘘っぽいのである。これは必ずしも石田の書いていることに真実と相違することが含まれているからではない。石田が「もはや戦後は終わった」と言われるようになってから生まれた世代であるからなのだ。
石田は、アメリカ人を父に持つ14歳の少年タケシを主人公に据え、そのことによる周囲の排他的な態度と本人の苦悩を軸に物語を展開している。そして、それだけではなく、タケシに対して、何があっても死なない不思議な能力を与えて、色あせた昔の小説よりも遥かに現代っぽい設定にしている。
ただ、読み進むうちに分かるのだが、彼は一風モダンな、新感覚の戦争小説を書こうとしているのではない。彼は一貫して戦争の犠牲者となって死んで行く日本人を描いている。「東京大空襲で死んだ」と十把一絡げにするのではなく、実際には人それぞれさまざまに悲惨な非業の死を遂げたのだということを丹念に描いている。
あとがきを読むと、著者自身が、そして今こそ著者の世代が、戦争の悲惨を後世に伝える役割を担うべきだと考えていたことが分かる。
タケシはミヤとテツという数少ない友だちの友情に支えられ、同居しているいとこの登美子にほのかな思いを抱きながら、男手に乏しい一家7人の大黒柱として、焼夷弾の雨降る中、家族を的確に引率して行く。
終盤の大空襲のシーンになると、僕はもう何かに引っかかったりはしなかった。ただ、物語の運びに載せられ、登場人物の感情を共有して読み進んでいた。
大切なのは歴史的事実と寸分違わないことではない。小説家が読者を、その閉じた小説世界に引き込めるかどうかなのである。僕は見事に引き込まれた。
戦争を伝えようとする著者の熱い思いによって、それは完全に雑音の入り込まない閉じられた小説世界となった。そして、それは今や僕が祖父母や両親から聞いた体験談と矛盾するものではなく、それらをしっかりと補強するものとなった。
体験談を聞いたことがない若い世代に読んでほしい。
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