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Wednesday, December 26, 2018

『ファーストラヴ』島本理生(書評)

【12月25日 記】 島本理生の第159回直木三十五賞受賞作品である。僕にとっては『ナラタージュ』以来13年4ヶ月ぶりの島本理生。

『ナラタージュ』の頃とは随分違うという話は聞いていたが、読んでみて確かに違う気がして驚いた。

例によって13年前の記憶はほとんどないのだが、読み始めてまず思ったのは、はて、こんなに文章の巧い作家だったっけ?ということ。

文章が巧いというのは必ずしも気の利いたフレーズや切れ味の良い表現を多用するということではない。基本的には読みやすく引っかからずにスラスラ読める文章であること、とりたてて「巧い」と思わせないこと、小説の背後にいる小説家の存在を感じさせないことだと僕は思っている。

前に読んだ時は、背後の書き手の逡巡まで伝わってきて、随分と引っかかりながら読んだような気がする。それが今回はまことにスムーズに読める。物語が自然に転がって行く。

『ナラタージュ』の時よりも、明らかにくっきりとストーリーが浮き彫りになっている。

若い女性が父親を刺殺した事件の真相を巡って、弁護士と臨床心理士が協力しながら真実の解明に当たって行く。この2人は大学の同級生であり、大学時代に何かがあったようであり、今は義理の姉弟の関係である。

そういう、ある意味テレビの2時間ドラマになりそうな、やや下世話とも言える設定で、著者は結構グイグイ押してくる。そして、そのことによって、文章による描写よりもストーリー展開が勝ってくる。

──そうなると、はて、この小説家はこういうものが書きたかったのだろうか?と、ちょっと考えてしまった。『ナラタージュ』はどちらかと言うと、あまりストーリーで押さず、心理描写が前面に出た作品ではなかったか?

果たしてこの作家は『ナラタージュ』の時から、こういう方向性を目指していたのか? それとも、時間を経て、こういう作家に変わってきたのか? 彼女は今そうなったことを良しとしているのだろうか?

いや、僕がそんなことをとやかく考えるのは余計なお世話である。ただ、そんなことを思うぐらい、これは『ナラタージュ』と比べて圧倒的に筋で押して行く小説になっていたので驚いたのである。

ただ、この作家があの頃と変わっていないのは、徹底的に人間の否定的な面や痛みを描いているということである。その姿勢だけはしっかりと持ち続けているところに、僕はこの作家の矜持を感じた。

ただし、若い頃は少し思念が先走ってしまって、それを読者に(特に当時の僕のような中年男性の読者には)まだあまり上手に伝えることができていなかったのだ。それが、(こんなことを書くのはおこがましいが)今ではこれだけストーリーをうねらせて押して行ける存在になったような気がする。

でも、その一方で僕は、『ナラタージュ』のような、ストーリーはあまり動かなくとも、そこにある何かを伝えようとした彼女の在り方も何だか捨てきれない。作家の呻吟まで伝わってきた、あの少しぎこちない文章が僕は捨てきれないのである。

そう、彼女はかつて何度か芥川賞候補に上がった作家である。それが直木賞を受賞したのがこの作品だ。──結局はそういうところに落ち着くような気がする。

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