映画『銃』
【12月2日 記】 映画『銃』を観てきた。武正晴監督。奥山和由プロデュース。
ほとんどがモノクロ。ここぞというところで何度かカラーになる。それがどういうシーンなのかは、これからご覧になる人のために書かないでおく。
もしも銃を拾ったら、という単一の仮定から広げて行ったドラマ。それだけにもっと退屈な作品に堕ちても仕方のないところだが、話の広げ方が巧い。
最初はこわごわ拾う。それから銃を持っていることの高揚感。下手するとそれが全能感にも繋がる。関係ないことにまで自信が漲る。一方で銃を持っているのが見つかるのではないかという不安感。にもかかわらず、あえて危ない方向に一歩踏み出してみたい気持ち。
やがて何かを撃ちたくなる。何かを撃つと、今度は多分、人を撃ちたくなる。そういう心理の動きが巧みに描かれている。
でも、僕が見終わっての第一印象は「何かが足りない。何かもうひとひねり必要だったのではないか?」だった。
原作は中村文則のデビュー小説。僕は1作だけ読んで(決して「幻滅した」というほどのことはなかったのだが、結局のところ)その後1冊も読んでいない作家だ。そういう僕と作家との相性も、この映画への評価に繋がっているのかもしれない。
モノクロで描くというアイデアも、モノクロからカラーへの転換もとても良かったと思う。銃と人間の関係が次第に主客転倒して行くピリピリした感じがまざまざと描かれており、銃という、日本では一般人がほとんど手にすることができないものをテーマに選んだのも慧眼だと思う。
でも、生きて行くことの息苦しさと危うさみたいなもの(あるいはそれを乱暴に青春期と呼んでも良いのかもしれないが)を銃に託して描くという意図の下で、銃に焦点が当たれば当たるほど、銃で表象しようとした世の中が小さな喩えに矮小化して行くような面があるように思える。
どうも構造的に難しいテーマに手を出してしまった気がする。
この映画を観ていると、どの場面が銃を拾った学生・トオル(村上虹郎)の妄想でどの部分が現実なのか分かりにくい面がある。こういう曖昧な描き方ができるのが映画のメリットだと思うのだが、果たして原作はどんな書き方になっていたのか改めて気になっている。
この曖昧さのおかげで、僕らは多様な捉え方ができる。ひょっとしたら刑事(リリー・フランキー)が訪ねて来たということさえ、トオルの空想でしかなかったのかもしれないではないか。
トオルと微妙な絡み方をする同級生・ヨシカワユウコを演じた広瀬アリスがとても良かった。僕はデビュー当時から妹の広瀬すずのほうが好きで、広瀬アリスのほうはどこが良いかさっぱり解らなかったのだが、ここのところの出演作を見ていると、広瀬アリスも相当良い。
(元々良かったのに僕が気づいていなかったのか、彼女がどんどん良くなってきているのかは定かでないが)。
このヨシカワユウコがトオルにとっての救いにもなっているし、現実世界への入口といった位置づけもできる。でも、ちょっとめんどくさそうな女だ。めんどくさい女が可愛かったりすると、それは男にとっての鬼門になる。そんな感じさえ、広瀬アリスは見事に体現して演じていた。
映画館を出て、普段からランダム再生で聴いている Walkman の電源を入れたら、イヤフォンから耳に飛び込んできたのは UA の『スカートの砂』だった。やれやれ、今日は村上一家の日らしい(笑)
「何か足りない」と思いながら映画館を出たのだが、家に帰ってこの文章を書いていると、意外にいつまでも余韻が深く長く残り続けていることに、我ながら驚いている。
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