『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる ハプワース16、1924年』J.D.サリンジャー(書評)
【12月10日 記】 サリンジャーのファンなら長年求めていた本であるはずだ。雑誌には発表されたが単行本にはならなかった9作の短編/中編がここには収められている。
サリンジャーは僕よりずっと年上だから、僕は発表当時に彼の作品に触れたわけではない。大学に入るまで僕はサリンジャーを知らなかった。
教養課程の選択科目で「英文学」を履修したら、前期の教科書が "American Jewish Writers"という短編集で、そこに The Laghing Man が載っていた。あれはどちらかと言えば、サリンジャーの技巧的な部分が色濃く表れた作品だと思う。
それに惹かれて(時期は忘れてしまったが)『笑い男』が収めれれている『ナイン・ストーリーズ』を全部読んでみた。
後期の教科書はこれまたサリンジャーの Franny and Zooey だった。この本にガツンと殴られたようなショックを覚えて、漸く『ライ麦畑でつかまえて』に手を出すことになる。
僕が大学時代に小説を書いたりしたのは、まぎれもなくサリンジャーみたいな小説が書きたかったからなのだ、と今では思う。これはこれこれだからこうだ、と理路整然と語れないような何か、曰く言い難い何かを書くのがサリンジャーだった。そして、それこそが作家の仕事だと僕は思った。
『ライ麦畑』はもちろん野崎孝訳で読んだのだが、後に村上春樹訳が出たときにも当然読み直しているし、その時に両者の訳の違いが知りたくて、改めて原文で全文を読み直してみたりもした。
僕は、サリンジャーという作家は名著『ライ麦畑』と、シーモアやフラニー、ズーイらのグラース一家を描いた所謂グラース・サーガの2大作を書き残した人だと思っていて、今回のこの本を手に取るまで、ホールデン・コールフィールドに連なる物語をこんなにたくさん彼が書いていたとは知らなかった。
最初の6編がホールデン・コールフィールド絡みの作品なのだが、直接『ライ麦畑』に繋がるストーリーもあれば、ホールデンは全く出て来ずに、兄のヴィンセントが主人公であったり、そのヴィンセントが死んだ後の話であったり、すでにホールデンは行方不明になっていたりもする。
単なる若者の話ではなく、戦争の暗い影を描いた作品群でもあり、短編作家としての構成の旨さはナイン・ストーリーズに通ずるものがある。
若い頃の僕が何故あれほどサリンジャーに惹かれたのか、描かれている時代は自分が青春期を送った時代より一昔前なのに、何故あんなに共感できたのか──そのことが、この本のあとがきを読んで初めて解った。
終戦が大量の若者を生み、若者が若者文化を生み、その若者を描いたのがサリンジャーだったわけだが、サリンジャー以前には大人と子供しかいなくて、もちろん若者を描いた小説はあるにはあったが、それらは全て大人の視点で書かれたもので、若者自身の言葉で若者を初めて語ったのが彼だったのである。だからその言葉は時間を経ても褪せることなく、若者の心に響いたのである。
最後に収められた『ハプワース16、1924年』については、この長いタイトルはずっと前から知っていて、ずっと読みたいと思っていた作品だ。『大工よ、屋根の梁を高く上げよ シーモア─序章─』とか『このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる』とか、こういう長いタイトルはいつもミステリアスで興味をそそられる。
これは『バナナフィッシュにうってつけの日』で自殺した長兄シーモアが7歳のときに両親に宛てて書いた長い手紙の体を取っている。だが、どう考えてもこれを7歳の子供が書いたとは思えない。
どんなに早熟で聡明なガキであったとしても、どんなに早くても中学生ぐらいにならないとここまでの内容をここまでの文章にすることはできないだろう。大人が読んでも難しいぐらいなのだ。
事実この小説が発表されたときにはかなりの酷評を浴びたらしい。もうサリンジャーはダメになったのではないかとまで言われたとか。
確かに読んでいてしんどい小説だ。ただ7歳のおませな天才少年がうだうだと語っているだけで筋がない。しかも扱っている分野がやたらと広くて、しかも難しい。読んでいてイライラする。
でも、よくよく考えると、これはホールデン・コールフィールドの語り口に通じているし、こういう風に真摯に考えて真面目に伝えようとしてるのに全然伝わらない感じを伝えるのがサリンジャーの文学だという気もする。
だから読んでいてイライラする。でも、とても普遍的なイライラなのだ。それを書くのがサリンジャーという作家の仕事だったのだと、今では僕はそう思っている。
もう一回サリンジャーの全作品を読み直してみたい気になった。
ところで「このサンドイッチ、マヨネーズ忘れてる」って、英訳するとどうなるのかな?と気になり始めて、まあ自分だったらこう訳すか、と書いてみた英文が原文のタイトルと完全に一致したので、なんだか嬉しい気分になった。
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