映画『生きてるだけで、愛。』
【11月10日 記】 映画『生きてるだけで、愛。』を観てきた。
僕は趣里が水谷豊と伊藤蘭の娘だということだけ知っていて、でも、『金八先生』も『とと姉ちゃん』も観ていないし、既に舞台で活躍していることも全く知らなかったので、ともかく昨年のTBSドラマ『リバース』での三浦貴大の悪妻役でぶっ飛んだのである。
この映画でも、あの悪妻役と同じぐらいエキセントリックな役だ。twitter などでは「メンヘラ」のひと言で片付けられてしまうタイプだろう。
青春映画の文法ではクライマックスに走ることになる。終盤、何かのっぴきならない状況になって、それを脱するために主人公が走る、走る──というのが定番である。ところがこの映画では寧子(趣里)が津奈木(菅田将暉)と知り合う冒頭のシーンから街を疾走する。いや、疾走なんて爽やかなもんではない。
自動販売機に頭突き食らわして、頭から血をダラダラ垂れ流しながら、「こういう時って走りたくなるんですけど」と言い残していきなり走り始めるのである。津奈木は訳も解らずに後を追って走る。
この寧子みたいな人物をピュアだとか不器用だとか言う人とは話す気にならない。ともかく単にめんどくさい女としか僕には思えない。僕はこの手の女には、と言うより、ほんの少しでもこういう傾向のある女子には極力距離を置いて接点を持たないようにしている。
鬱で朝起きられないというのは分かる、と言うか、まあ、多分そういうもんなんだろうなとは思うが、布団から起き出してきた時にあんなにエネルギーのある鬱があるか、と思ってしまう。
寧子はコンパで知り合った津奈木ともう3年も同棲している。鬱に入ると起きられない。夕方まで寝てしまう。働きになんかもちろん行けない。ただ津奈木の家に居候して部屋を散らかし、仕事でクタクタになって帰ってきた津奈木に罵詈雑言を浴びせて毎日を送っている。
津奈木は物書きを目指して出版社に就職したのだが、怪しいゴシップ記事が売りの雑誌で意に染まない記事ばかり書かされている。そんな時に家にはこんな女がいるとたまらんなと僕などは思ってしまうのだが、彼は毎晩寧子の分まで弁当を買ってきて、荒れ狂う寧子の言葉に生返事をして受け流しいている。
寧子はそんな津奈木に余計にイライラするわけだが、でも、実際のところ、彼女が一緒にいられるのはこういうタイプの人間だけである。
後にアルバイトをすることになって通い始めたカフェバーの経営者夫婦と店員(田中哲司、西田尚美、織田梨沙)のような絵に描いたような優しい人たちには、ありがたく思いながら痛くて耐えられないのだ。
原作は本谷有希子。映画になった『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』でもそうだったけど、彼女はこういう人間、こういう話を書かせるとものすごく巧い。津奈木の元カノの勘違い女・安堂(仲里依紗)も含めて、とんでもない奴がほんとにとんでもないのだ。
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』の主人公・澄伽に対してもそうだったけれど、僕はこういう女には全く親近感を覚えない。
「誰にだってこういう部分はある」なんて言う人がきっといるだろうけど、人間というのは本来ものすごく多様な要素を持ち合わせた複雑な存在であり、僕らも寧子も澄伽も同じ人間なのだから、そりゃ同じ要素があっても当たり前で、そんなことを訳知り顔で指摘したり、マジで共感を覚えたりするのは勘弁してほしいと思う。
結局のところ、部分的にはどれだけ正しくても、バラバラの部分では人は生きては行けないということだ。
監督・脚本は CM や MV でキャリアをスタートした関根光才。僕はオムニバス映画『BUNGO ~ささやかな欲望~ 告白する紳士たち』での短編を観ている。
今回関根は、原作には書き込みが浅かった津奈木のキャラを膨らませて、ずっと寧子の視点で書かれていた物語を2人の視点に分解したという。原作通りなのか関根の創作なのか知らないが、最後の津奈木の台詞はめちゃくちゃ怖い。
16ミリで撮ったのだそうで、ざらっとした質感に柔らかい照明を当てた暗めの画面なのだが、実は画面の中には着ているもの、布団、その他の小道具、そして街明かりと、鮮やかな色彩が溢れている。画は本当にきれいだ。
そして、趣里と菅田将暉の怪演があり、結局のところ、これは凄い映画になった。僕はこんな奴らに微塵も共感なんかしない。でも、この映画は面白かった。まさにそういうのが僕にとっての本谷有希子である。
もう一度観たいなんて全然思わない。でも、印象はとても深い。僕が映画賞の審査員だったら投票するかもしれない。
『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』と同じく、この作品もタイトルに「愛」という安っぽい言葉があしらってある。本谷有希子が何を考え何を狙ってそうしたのかは窺い知れないが、パンフレットに最果タヒが書いている文章はとても説得力があると思った。
Comments