『寝ても覚めても』柴崎友香(書評)
【9月20日 記】 映画を先に観た。だから、どうしても映画との比較が感想の中心になってしまう。
濱口竜介が監督を務めた映画はかなり原作を書き換えていた。和歌山が北海道に変わっている、とか言う話ではない。へえ、こんなに違うのか、と思うほど、根本的に変わっている部分がある。
もちろん、長編小説を映画化する場合、通常はそのままでは劇場用映画のスタンダードである 2時間前後の枠には収まらない。
だから、長い原作の一部分を切り落として(あるいは逆に一部分を切り取ってそれを)映画化するか、それとも設定や進行を書き換えて捻って繋げるみたいなことをするか、通常はその両方をやることになる。
ただ、これくらい大きく触ると、原作者によっては激怒する人もいるんだろうな、と思うほど、いろんなところが、と言うより、いろんな面で原作とは違うものになっている気がした。
冒頭から言うと、麦と朝子の出会い方からして全く違う。おまけに小説のほうはどうでも良い周辺の描写がいつまでもぐるぐる回って、却々先に進んでくれない。僕は(映画を観た後だったのでなおさら)読んでいて「よし、これでこそ柴崎友香だ!」と嬉しくなった(などと言いながら、実はまだ柴崎友香を読むのは2冊目なのだが)。
濱口監督は原作小説を「細密な日常描写と、突然訪れる荒唐無稽な展開」と分析している。なるほど、彼はそういう読み方をしたんだろうな。だから、ああいう映画になったのだと思う。
僕の感じ方は少し違った。確かに細密な日常描写と突然訪れる荒唐無稽な展開がそこにはある。ただ、濱口監督の映画では、その荒唐無稽な展開によってそれまでの日常はボロボロに破壊されてしまう。
それに対してこの原作小説では、荒唐無稽な展開の後、まるで何ごともなかったかのように、いや、と言うか、何があったって日常は日常だと言わんばかりに、やっぱり日常が戻ってくる。それが元の日常なのか新たな日常なのかは判らないが。
映画は荒唐無稽な展開に焦点を当てている。だから、怖い。
けれど、原作小説の重みは、僕はこのだらだらとした日常描写にあると思う。
以下、小説の何箇所かから抜書きをしてみる:
「ヤマシタって誰? ヤマシタって誰? ねえ、ヤマシタって誰?」女の子は窓から離れて母親の周りを回転しながら繰り返した。それはだんだんだんと質問から離れて、歌みたいになっていった。
離れていくはずなのに、耳のすぐそばで歌っているみたいだった。耳を触られているみたいな声だった。
帰るとき、地下鉄のホームでスキップをしている男の人を見た。
麦はわたしの前にしゃがみ、わたしにキスした。背中に麦の手の感触がして、驚いた。この人には意思があって、それによって彼自身で動いているのだと、突然わかった気がした。
台の上のほうのモニター画面に、わたしの後ろ姿が映っているのを見つけた。(中略)斜め上から映されて、自分では見えない頭の天辺が見えた。背の高い麦からは、いつもわたしの頭の天辺が見えているんだと思った。
わたしが見るこの部屋はいつも真っ暗で、明るいこの部屋を見るのはわたし以外の人だった。
西新宿の真ん中に、また新しい超高層ビルが造られようとしていた。誰のどんな意志があれば、あんなに大きいものが作れるんだろうと思った。
麦にもたれて眠った。眠っているあいだにいなくならないように、麦の親指を握っていた。麦はずっと起きていた。
どうだろう。僕らの目はこのようなところに向けられているだろうか? 僕らの神経はこのようなことを感じ取っているだろうか? 僕らの脳みそはこんな発想に及んでいるだろうか?
最後の引用部分で言うと、朝子は麦の親指を握って眠った。それだけなら甘い恋愛の描写である。「いなくならないように」というのは単に恋の思いを強くさせるための過去の試練を表している。
ただ、問題は麦はずっと起きていたということである。いや、眠った朝子と起きていた麦を対照しているのではない。朝子は少なくとも何分か眠っていたので、その間に麦が眠ったのか起きていたのかは知らないはずだ。
それを「起きていた」と断言するのが、ある意味、柴崎友香の面白さでもあると思う。
日常が壊されるのが怖いのではない。日常が続くと、何が日常で何が日常でないのか分からなくなってしまう。そして、それこそが日常なのである。一見朝子の(あるいは麦の)常軌を逸した心の動きを描いているように見えて、実はそれが日常であるというのが本当の怖さなのである。
映画と小説の最後は、決定的に違う部分もあるけれど、大体は似ている。ただ、そこには日常というものの捉え方の違いが少し表れているように思った。
(なお、この本には表題作以外に森泉岳土のマンガとコラボした書き下ろし小説が収められていますが、一旦ここで切って上げることにしました)
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