『もう「はい」としか言えない』松尾スズキ(書評)
【8月9日 記】 初めて松尾スズキを読んだ。芥川賞の発表前に読み始めたので、ひょっとしたら僕が読んでいる途中で受賞するかもしれないと思ったが、主人公の海馬五郎同様、世の中そんなにうまい具合には進まない。
表題作と、同じく海馬を主人公とする『神様ノイローゼ』の2篇が収められているのだが、僕には後者のほうが面白かった。
表題作においては、劇作家の海馬がある日、妻に浮気がバレてしまう。いや、普通にバレるという状況よりももっと怖く、何故だか妻は知っているのだ。どこまで知っているのかさえ定かに掴めないのだが、とにかくかなりのことを知ってしまっているのだ。
恐ろしい設定だ(笑) よく考えられた設定だ。
ここで取り乱してワーワー泣き叫ぶような妻であれば、言い方は悪いが離婚してそれで終わりになる。しかし、妻は落ち着き払っており、別れるとも言わないし、いくつか条件を提示してきて、その中に2年間毎晩自分とセックスをする、というのがある。
これは実際にはありそうもない設定ではある。もちろん五十男の海馬には辛い仕打ちだが、妻にとっては仕打ちにならないのかどうか、考えるとよく分からなくなる。
が、小説というものは別にありそうもない設定であっても構わない。非常によく考えられた面白い設定だ。なんならこのジャスト・ワン・アイデアで最後まで物語を引っ張っても良かったのだが、著者は突然別の設定を用意する。
それはある日突然海馬がエドルアール・クレスト賞という聞いたこともない賞を受けたから授賞式のためにパリに来いという通知を受ける。それがどんな怪しい賞であっても何であれ一時的に妻から逃れるチャンスであると考えた海馬は、これまた得体の知れない通訳を連れて旅に出る。
そこからの展開が何とも言えずシュールで、終わり方も何とも言えず予想外で、これはこれで作家の自由な想像力の発露を感じさせる面白い作品になっている。だが、それだけに少し解りにくくとっつきが悪いのも事実だろう。
『神様ノイローゼ』のほうは、その海馬の少年期の歪んだ思いについて書いてあって、こちらも万人受けするのかどうかは僕には判らないが、僕には随分面白かった。僕は海馬とは性格も生い立ちも違うが、とても共感を覚える部分がある。
「自意識と美意識は、いつもこうしてパンパンに膨らんだあげく自爆するのである」という記述に僕は非常に親近感を覚えてしまった。ただ、これが大多数の読者にとってもそうなのか、一部の自意識過剰人種に特有のことなのか、そこは分からない。
あるいはその辺りに、今回もまた芥川賞を取り逃がした原因があるのかもしれない。いずれにしても、海馬は、いや松尾は自分についてのそんなあれやこれやを全て笑い飛ばしているのだけれど。
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