『国宝』吉田修一(書評)
【8月14日 記】 『パレード』『春、バーニーズで』『悪人』『さよなら渓谷』『横道世之介』『怒り』と、映画化/テレビ化されたものを映像でたくさん見てはきたけれど、実は吉田修一を読むのは初めてである。
読み始めての第一印象は、「あれ、こんな文章を書く人だったの?」という感じ。文字と映像では随分印象が違う。その一方で、「ああ、でも、この人の書くものは次々とドラマ化されるはずだわ」という気もする。
読み始めてすぐに連想したのは五木寛之の『青春の門』だった。僕らの世代にとっては青春のバイブルである。
ともに主人公は少年、舞台は九州である。『青春の門』の信介の父親は『国宝』の喜久雄の父親と違ってヤクザではなく炭鉱夫だ。だが、同じように肝の座った男である。そして、父親亡き後、信介の親代わりになってくれた塙竜五郎がヤクザだった。
幼馴染で主人公を慕う女の子も出てくる。信介にとっての織江が喜久雄にとっての春江だ。
ヤクザ一家の宴席で喜久雄は歌舞伎を舞う。ヤクザの話に似つかわしくない冒頭である。タイトルが「国宝」だし、なるほど、そっちの方に進む話なのか、と察しがつく。
しかし、案の定、そこに対抗する組の襲撃があり、大乱闘の末、父は殺され、組は離散となる。
のちに喜久雄は父の敵討ちを画策するが失敗し、学校にもいられなくなり、父が死んだ宴席にたまたま招かれていた歌舞伎役者に引き取られて大阪に出る。そして、そこの跡取り息子の俊介と仲良くなる。
そこからまた僕の連想が始まる。今度は雲田はるこの漫画『昭和元禄落語心中』である。僕は原作は読んでいないが、2シリーズに渡って放送されたアニメーションを見た。
この話の八雲と助六のように、俊介と喜久雄は切磋琢磨する。一方は落語、他方は歌舞伎であるが、ともに日本の伝統芸能であり、ともにその最高峰を目指しているところは同じである。
2人の人格と芸風の違いが対照的に描かれる。ともに師匠との確執がある。恋も出てくるし、これだけ長いスパンを描いた物語だけに、死による別れも当然ある。芸の継承と血縁の問題にも触れる。
そんな風にこの小説はバラエティ豊かに進む。僕が『青春の門』と『昭和元禄落語心中』を挙げたのは、どこかで聞いたことのあるような話だという意味ではない。むしろ、他の名作にも通じる普遍性について述べたかったのである。
しかし、読んでいて少しく違和感を覚えたのは、登場人物の細かい心理描写がほとんどないことである。多くの小説では、ところどころで主人公の葛藤や苦悩や晴れやかな気持ちが、そこそこの行数、頁数を割いて描かれるものだ。それがここにはない。
だから、下手すると誰かがまとめたあらすじを読んでいるような気分になることがある。全体に展開が早く、月日を飛ばして次の章に移ることもあるので、なおさらそんな感じになる。
それからもうひとつ。僕は常々、小説というものは物語の背後にその書き手がいることを感じさせては失敗だと思っている。登場人物が勝手に立ち上がって動き始めてこそ、作家は人物に魂を込められたと言うべきだろう。
ところが、この小説では書き手、語り手の存在がはっきりある。存在を隠していないばかりか、「ご記憶だろうと思うが」とか「話を元に戻すと」などと、語り手が自分の存在を前面に出して語り尽くす。
これは言うまでもなく「狂言回し」というスタイルである。ネタが歌舞伎だからそのスタイルを選んだのか、この作家がいつもこういうスタイルなのか僕は知らない。ただ、心理描写の割愛、展開の速さ、そして、狂言回しの存在の3つが相俟って、少し淡々と運びすぎているような印象も持ってしまった。
ところが、そこからがこの作家の腕なのだろう。淡々とエピソードを重ねるスタイルではあるが、ひとつひとつのエピソードの組み立てのうまさで、ストーリーを右に左に大きく揺さぶり綴り合せて、作家はいつの間にか読者をぐいぐいと引っ張っていく。
中盤にあったちょっとした中だるみ感を、終盤には僕らはすっかり忘れてしまっている。
その結果、僕らの読書のスピードは終盤に一気に上る。そして、読み終わったとき、ああ、そうか、これがこの作家の終わり方だと気づいた。
文字で読むのは初めてだが、これは『パレード』『春、バーニーズで』『悪人』『さよなら渓谷』『横道世之介』『怒り』の全てに共通する終わり方である。結局のところ、「語り尽くさない」というところが、この作家の真骨頂なのか。とても余韻が深い。
この作家が何故これほど映像化されるかがよく分かった。それはこの作家が極めて映像的な文章を物するからだと思う。読み終わったときには完成に近い映像が読者の脳裏にできてしまっている。その読者が映画関係者であれば、もはやそれを映画化するのを止められないだろう。
一つだけ残念なのは、僕がもっと歌舞伎に詳しければ、作者が踏まえたあれやこれやにいっぱい気づいただろうし、話は僕の脳内でもっと映像化していたはずだということ。きっとこの本をきっかけに歌舞伎にのめり込む人もいると思う。
(この文章はシミルボンと NetGalley の合同企画に応募して書いたもので、発売前の書籍の上下巻通じての書評になっています)
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