『ドリーム』(と邦題)
【8月12日 記】 会社の同僚が貸してくれた DVD で『ドリーム』(セオドア・メルフィ監督、2016年、アメリカ合衆国)を観た。
とても面白い良い映画だった。下世話に言うと、黒人差別版「細うで繁盛記」なのだが、これをひとりの物語にせずに互いに友人である3人のストーリーに編み込んだのが正解だと思った。
すでに公開が終わってから長く、いくつか賞も獲って評価の固まった作品なので、こういう場合僕はあまりくだくだと映画評めいたものは書かないのだが、ひとつだけ、タイトルについて書いておきたい。
以前自分のホームページをやっていたときにも、「考えられなかった邦題を考える」「アバウト・ザ・タイトルズ・オブ・ムービーズ」などと題して、近年の邦題の無策とレベルの低さを嘆いたことがあったが、この『ドリーム』がそのとき例に挙げた映画と同じぐらいひどいと言うのではない。
『ドリーム』というタイトルは、原題をカタカナにしただけの芸のないものではなく、フンイキだけでテキトーな日本語を持ってきたものでもなく、ちゃんと映画の中の台詞から拾っているからだ。
だが、原題を知ると少し残念な気分になる。
この映画の原題は HIDDEN FIGURES である。
hidden は分かるだろう(ただし、これを「隠れた」と訳すか「隠された」と訳すかで随分ニュアンスが違っては来るのだが。もちろん「隠れた」と訳すべきケースと、「隠された」と訳すべきケースがあるし、人為を感じさせたくなければ「見つからない」ぐらいにしておいたほうが良い場合もある)。
問題は figures である。これは何だろう? スポーツ観戦好きの人ならフィギュア・スケートを思い出すかもしれないし、オタク系の人ならアイドルなどを象った人形を思い出すかもしれないが、この場合はそのいずれでもない。
この場合はプロレス・ファンに訊くべきなのだ。つまり、この figure は「4の字固め」 figure 4 leg lock の figure であり、「数字」の意味だ。
「隠れた数字」というのは如何にもアメリカらしい、我々日本人からするとやや情緒性に欠ける無味乾燥なタイトルではあるのだが、figure にはいろんな意味があるだけに、そのことを知っているともうちょっと膨らんでくる。
例えば figures は単なる数字ではなく「図表」とか「データ」というふうに訳したほうが、この映画で扱われている高等数学に似合っているかもしれない(翻訳としては「数字」のほうが正確だと思うが)。
あるいは「(卓越した)人物」というような意味もあって、これが主人公である3人の黒人女性を指していると捉えると、それなりに味わい深くなる。
直接関係はないが、動詞としては「計算する」という意味があり、また out を伴って figure out とすれば「理解する」「分からなかったものがすっきりと分かる」という意味にもなり、その辺の全てがこの単語の語感を形成してると思う。
で、僕が言いたいのはせっかくこの figure という雰囲気のある単語が使われているのだから、別方向から攻めて『ドリーム』なんて邦題をつけるのではなく、もうちょっと粘って hidden figures の見事な意訳を考えられなかったのかな、ということである。
これが良い意訳かと言えば全然そうではないが、考え方を示すために例を挙げるとすれば、例えば「検算の裏側」とか「宇宙を計算する女たち」みたいな、そういう発想である。いや、正直言ってその程度の意訳なら『ドリーム』のほうがずっと良いのだが(笑)
言うなれば、In the Heat of the Night を『夜の大捜査線』、Dog Day Afternoon を『狼たちの午後』、Close Encounters of the Third Kind を『未知との遭遇』、Brazil を『未来世紀ブラジル』と訳したような、そういう感性である。
言うは易し、なんだけどね(笑)
ところでこの映画、当初の副題は「私たちのアポロ計画」だったそうな。実際には NASA のアポロ計画はもう少し先のことで、この映画で描かれているのはマーキュリー計画である。そのことがネット上で叩かれて結局その副題を外したのだそうだ。
その際の言い訳が、ウィキによると「日本の観客に広く知ってもらうための邦題として、宇宙開発のイメージを連想しやすい『アポロ計画』という言葉を選んだ」「ドキュメンタリー映画ではないので、日本人に伝わりやすいタイトルや言葉を思案した結果」とか。
やっぱりここにも安易な発想があったのかと、これはちょっと残念なエピソードである。
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