お疲れ様の行方
【7月24日 記】 若い人が「お疲れ様です」を乱用するのは気持ちが悪いというような話は、これまですでに数えられないくらいの人が数えられないくらいのところに書いているし、僕自身も(このブログではなく、すでに閉鎖した)自分のホームページに何度か書いている(ちなみに初めて書いたのは2002年だった)。
やっぱりある年齢以上の世代にとってはとても違和感のある表現なのだ。
昔は「お疲れ様でした」というのはひとつの仕事に区切りがついた時しか使われない表現で、従って、せいぜい一日に一度しか(何日もかかる仕事であれば、その仕事にケリがついた時しか)聞けない台詞だった。
それが今では、下手すると朝イチでかかってきた電話で言われることになる。
しかし、それに対して「バカ野郎、まだ会社に来たばっかりだ。疲れてなんかねえよ」と言っても仕方がない。それは「おはようございます」と言われて、「バカ野郎、俺は今日は7時から会社に来て働いてるんだ。何がお早うだ。ちっとも早くなんかねえ!」と管を巻くようなものである。
使っているうちに元々の字義から離れてしまう言葉はたくさんある。全てが元々の字義でないとおかしい、と言い出すと、僕らの世代でも途端に使えなくなる言葉が山ほどある。
若者たちの「お疲れ様」を観察していると、しかし、彼らもやはり「お疲れ様でした」は一日(あるいはひと仕事)の終わりにしか使っていないのに気がつく。
だから、「お疲れ様でした」の意味は昔とそれほど変わっていないのである。
問題は「お疲れ様です」という現在形である。これは「疲れ」とはあまり関係がない。「あ、どうも」みたいな軽い挨拶なのである。
「どうも」とは、英語で言うなら somehow あるいは very much であり、いきなり「どうも」と言われても何がどうもなのかどうもよく分からない。それと同じようによく分からないけれどよく使われる言葉が「お疲れ様です」なのである。
なぜ、そんなところに「お疲れ」という表現を持ってきたかと言えば、ともかく若い人たちはひとつで万能な言葉を使いたがる(と言うか、もっと一般化すると、ひとつで万能な解を常に求めている)ので、その傾向を反映したものではないかという気がする。
そういう傾向からすると、いずれ「お疲れ様でした」は「お疲れ様です」に吸収されそうな気もしないではない。「ご苦労様」も「ご足労様」も、ひょっとしたら「ご愁傷様」や「お生憎様」あたりまで、将来は「お疲れ様」に吸収されてしまうかもしれない。
それもこれも、多分、話し手が疲れも苦労もしないで済むための方便なのである。
恐らくそれは実現するだろう。「大丈夫」がすでにかなりオールマイティな表現になっているように、「お疲れ様」もいずれ鉄壁のオールマイティさを身につけるのではないかな、という気がする。
もちろんそれは、「お疲れ様です」という挨拶にどこかがっくり来てしまう我々の世代が死に絶えた後のことではあろうけれど(笑)
Comments
1970年に関西の放送局に入社、突然「おはようございます」「おつかれさまでした」の特殊挨拶の世界に放りこまれました。俳優やタレントさんに「おはようございます」と挨拶するのは、たとえ彼または彼女が遅刻したとしても、「時間は大丈夫です」の意味をこめての用語。作業が終わったあと「おつかれさまでした」と、一応やりとりはするものの、「いや、あまり疲れてないのですが」とつぶやいたりしていました。
同時に社会人になった友人たちがそんな挨拶をしているのは聞いたことがなく、どうやらそのころまでは水商売と芸能界特有の言い回しだったようです。
おつかれさまでした。
Posted by: hikomal | Friday, July 27, 2018 20:12