神
【6月3日 記】 「神対応」ということばが気持ち悪い。
そもそもここ10年くらいの間に「神」が随分安売りされるようになった気がする。家出少女が自分を泊めてくれる男が現れるのを待つことを「神待ち」と言ったりするのもそれ。「神ってる」という動詞もそれ。
ただし、物事を誇張する際に神が持ち出される、神になぞらえられるのは昔からあったことではある。
例えば「神業」。でも、これは軽々しくは使われなかった。とてもじゃないが人間にはできそうにないような“わざ”に触れて驚嘆したときに思わず口をついて出てくることばだった。
例えば「神の手」。これは指圧などの施術師や考古学の発掘調査をしている人などへの賛辞だが、決してその人たち自身が神だとは言っていない。あくまで手だけが神で、頭や体の他の部分は人間なのである。人間が人間の手で信じられないようなことをするので、手だけは神なのではないかと言ったのである。
例えば「神通力」。これもその力を発揮した人が神だと言うのではない。人間なのにまるで神に通じるような力なのである。
じゃあ、「神対応」という表現は対応した人間のことを神だと言っているのかと言うと、必ずしもそうではないかもしれない。単に「神のような対応だ」と言うにすぎない。ただ、軽々しすぎる、安すぎるという印象はある。
仮にも相手は神だぞ。
そもそも「神のような対応」と直喩で来ればそれほどの違和感はないが、「神対応」と暗喩で言われるとやや抵抗がある。「あいつは鬼のような男だ」と言うのと「あいつは鬼だ」という表現の強さの違い。
しかし、それよりも、「神」ということばと「対応」ということばの相性の悪さが違和感の最大の原因ではないかと思う。
神は対応なんかしないのではないか。神は上から見ているだけ。いや、時には残酷な仕打ちをすることもある。もちろん、自らを助くる者を助けることがあるかもしれない。でも、一般的に言って、愚かな人間にいちいち「対応」なんか、決してしてくれないのではないか。
「いや、そんなことは言っていない。神対応というのはつまり神がかりの対応ということだ。神がかりとは神が人間に憑依すること、あたかも憑依したかのような状態のことだ」という反論があるかもしれない。
「神がかりの対応」と言われると表現が説明的になり、それほどのひっかかりはない。結局は、その辺りのニュアンスをバサッと切り去って、「神対応」と縮めてしまうことに、気持ち悪さの根源があるのかもしれない。
神はかつて畏れの対象であった。神をも畏れぬ表現はいつか神の怒りを買うかもしれない。
僕は信仰心は薄いが、表現のバランスは失いたくないと思っている。
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