整理と価値観
【6月27日 記】 自分とは違う人間がいるということを思い知るためには、誰かと一緒に長時間私生活を共有する環境に自分を置いてみるのが一番良いと思う。例えばそれは結婚である。
妻が Gmail を使い始めてもう何年にもなると思うのだが、今ごろになって、「ねえねえ、このメールをこのタグのフォルダに移すにはどうすれば良いの?」などと言っている。
今に至るまでタグとフォルダの本質的な理解ができていないのはともかくとして、問題はかなりの数の既読メールがタグを付けない状態で受信箱に溜まっているということだ。ここから整理するのはかなり面倒な作業になる。
僕は Gmail を使い始めた初日から、最初に届いた1通目のメールから、きっちりと複数の、違う角度で分類した何種類かのタグを割当て、メールを使いながら日々、タグを追加したり作り変えたり、あるいはあるタグの下位に移動したり、フィルタを整えたりしながら使い勝手を上げて行ったものだ。
そんなことを言うと必ず、「それはやまえーさんには整理の才があるからよ」とか「整理の得意な人はいいなあ」とか言われるのだが、それはちょっと違うと思うのだ。
確かに、学校に「整理」という教科があったら僕はそれなりに良い成績を挙げたかもしれないけど、そんなことと実生活は少し違うように思う。
いや、ひょっとしたら逆かもしれない。僕は「○○整理術」みたいな本は全く読む気にならないし、テレビで整理の名人みたいな人が誰かに何かを教授しているのを見るにつけても反感を覚えるほうが多い。むしろ、学校の教科になったら高成績を上げるのは妻のほうかもしれない。
要するに妻には僕とは違う感覚、違う価値観があるというだけのことのように思うのである。
僕は Gmail を使い始めた初日からこんな風に整えておくと後が使いやすいぞという思いがあり、そういうことを考え、そういうことを推し進めることにある種の快感を覚えるのだが、単に妻はそうではないのだ。
妻はそんなことが面白いとは思わないし、それをやることにそれほどの価値があるとは思えないというだけのことで、決して何かにつけて整理ができないわけではない。
妻の箪笥の引き出しには上着も下着も靴下もハンカチもぐちゃぐちゃに入っているかと言えば全然そんなことはない。右と左と手前と奥と、上の段と下の段にきれいに分類されて入っている。
洗った食器を片付けようとして、僕が「このお皿はここで良かったっけ?」と訊くと、「違う。そこは和食器」と言われ、僕はあらためて「あ、そういう分類になっていたのか」と気づいてちょっと感心するのである。
領収書やカードの明細、振り込み票など、暫くとっておく必要のある紙片の類を、僕は5段の引き出しがついたアクリル製の小箱に入れて整理していたのであるが、妻がそこにどうしても違うものを入れてしまう。
それで思い立って、僕はその5段を僕専用にして、妻にはもうひとつ小箱をあてがって、それを妻の「なんでも箱」にしてみた。そうすると分類が機能し始めるのである。
もちろん妻がなんでも箱に入れたものを僕が分類し直して5段の箱に入れ直しているのであるが、その形で効率よく整理が進むのだがから僕は何の不満もない。妻も自分があまり価値を感じない作業に縛られる必要がなくなる。
Gmail についても、妻も最初は僕のアドバイスを受けてしばらくはこまめにタグを付けてからアーカイブするという作業をやっていたように思う。それがいつしかできなくなったわけではない。
そこにそれほどの喜びを感じなかったのでやらなくなったというだけのことなのだ。
結婚した当初は僕も時たま「どうしてこの人はこういう整理ができないんだろう?」と思うこともあったが、それは整理ができる/できないという能力的な問題ではなく、価値観と生き方の問題だと気づいたのである。
そのことに気づいてから、我々2人の組合せにおける最適解を見つけたのである。
自分とは違う人間がいるということを思い知るためには、誰かと一緒に長時間私生活を共有する環境に自分を置いてみるのが一番良いと思う。例えばそれは結婚である。
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